運良く成功したいから、理解に失敗し、関係できるを書いて、こんな短いメモ書きなのに二つも書き忘れたことがあって、自分のアルツぶりに恐れおののいているのですが、一つは「運良く成功したい」ということには、そのことで主体の居場所を確保したい、という欲が絡んでいます。
合理的だと思われている一般的なステップを辿った結果、成功するということは、そこに「わたし」が「わたし」でなければいけない必然性というのはありません。当然のことながら、実際には「一般に合理的と思われている努力」を経たところで、うまくいくかどうかは確実ではありませんし、依然として運やら才能やらといった要素は必ず入ってきますので、王道を一歩ずつ進んだところで恥じるところは何もないのですが、「犬が西向きゃ尾は東」というロジックに「わたし」の居場所はありません。それで多いに結構、幼稚なことに拘泥しなさんな、というのはまことにもっともですが、わたしたちは大抵、大人の皮を被った幼児ですから、どこかで自らの存在を確認しようとするところがあります。正にナルシシズムですが、ここに耽溺すると危険な一方、それを確かめることで他者と繋がる経路も開かれる、というのは件のエントリで述べた通りです。
「普通はうまくいかない方法を採ったのに、結果うまく行った」という時に、わたしたちは一番、「わたし」が存在していることを感じ、この世界に代替不可能な居場所を確認できるのです。
もう一つ書き忘れたのは、皆んな「運の良い人」が大好き、ということです。
コツコツ努力して結果を成した人がエライ、というのは当たり前なのですが、うまく行って当たり前(だが成し遂げるのは難しい)な経路を辿って成功した人には、言うなれば華がありません。「普通」です。冷静に考えれば、この人は大変立派な人なのですが、世間ではあまりチヤホヤされません。
皆んなが好きなのは「運の良い人」です。単に生まれが良くて親が有名アーティストだとか、顔が良いとか、アスリートとして恵まれた肉体を持っているとか、もちろん本人の努力も多いにあるでしょうが、それ以前に「選ばれた者」として輝いている人に、世の人々は惹かれるのです。運というのが乱暴すぎるなら、「努力によらない部分」です。
なぜそういう人々に華があり、人々の憧れを刺激するのでしょうか。色々あるでしょうが、これも一つ目の件と重なり、ものごとが「あるべくしてある」感じに輝きを感じるから、というのが一つあるのではないでしょうか。筋道とかプロセスとか、知的に理解可能な手順以前に、この世界にはそれぞれのあるべきニッチというものが存在し、そこに座るべき人が座っている、という風景に、即自的な快楽があるのでしょう。
それが自分にはたどり着けない高い椅子であれ、座るべき人が座っている風景というのは、たとえ低い椅子であれ、自分にも何がしかの椅子がある、という、受け入れられている感覚を惹起します。椅子の高さより、とにかく座る場所がある、ということが、一番大事なことです。
こういうプリミティヴな面を無視して、高い低いで競争をさせたり、「努力の報われる社会」など目指したところで、多くの人々は安寧にたどり着けないようにも思っています。