漫画家と動く歩道とホームレス

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 日本の漫画週刊連載が非常に過酷で、しばしば漫画家の心身を壊してしまう、というお話があります。だからプロダクション制にして集団作業にしよう、という考えもあります。それはそれで結構かと思います。
 一方で、個人というものが生み出す、時にトチ狂った力というのは物凄いもので、また一人で端から端まで見渡せる仕事というのは、他にはない魅力があります。
 わたしたちは集団になると、個人の集まり以上の何かを生み出し、この余剰によって大きな力を得ます。国家でも会社でも、村の稲刈りでもそうでしょう。これも当たり前のことで、止める理由はありません。
 ただこの余剰の力というのは、時に不死ながら人のような顔をして、邪神として暴走もするのです。
 またフラットな世界と抵抗の話ですが、フラットな世界というのは、この余剰が翻って個人を飼いならす世界のことで、というのも、フラット世界の側からすれば、個々人は超電導的に抵抗のない状態でいてくれる方が大方ありがたいのです。余計なことはしないで欲しいのです。何かをするにしても、予想の範囲を越えて欲しくない。斜め上な方向に飛び出したりされると困るわけです。
 何度も言うように、このフラットな世界のパワーというのは凄まじいもので、わたしたちに素晴らしい恩恵を沢山もたらしてくれています。それが村の稲刈りくらいなら良かったものが、いつの間にかグローバルに世界を覆い、わたしたちを制御しようとしています。これが何を変えるかと言えば、速度です。
 フラットな世界は、余剰の力をもってわたしたちの世界を豊かにするのですが、その豊かさが一方向に限局されると、余った力はそのパイプの方向に向かってひたすら速く流れるように働きます。結果、速度だけがどんどん上がっていきます。
 この上がった速度にわたしたち哀れな人間はついていけず、しばしば脱落者を生み出します。物凄いスピードの動く歩道のようなものです。この歩道についていける分にはパワーを享受できますが、振り落とされると大事故です。そして事故を起こすのは「自己責任」というわけです。
 週刊連載の漫画家のような、個人をもって凄まじいスピードで仕事をする人というのは、言うなれば自力で走って動く歩道に並走している人たちです。死人が出ても当然というものでしょう。
 でもわたしたちは、走って欲しい。なぜなら漫画は面白いし、早く続きが読みたいからです。
 この時、何が問題なのでしょうか。漫画家がトロいことでしょうか。むしろ、動く歩道が速すぎるのではないのでしょうか。あるいは、時々「安息日」でも設けて、動く歩道を止めた方が賢いのではないのでしょうか。
 そうは言っても、もちろん誰も動く歩道を止めたりしないでしょう。動く歩道によって多くの人が便利に暮らしていて、大体、誰もが動く歩道にしがみつくのに必死ですから、それ以上のことなど構っていられないのです。この便利さに口出しするような者がいても、邪魔者でしかありません。落ちたヤツなど「自己責任」です。
 動く歩道と言えば、だいぶ以前に東京都庁が新しくなった時、新宿駅西口に動く歩道を作ることになり、ここで一悶着がありました。なぜなら、新宿駅西口の動く歩道建設現場は、当時ホームレスのねぐらだったからです。
 ある意味、ナイスアイデアです。歩道が動いてしまえば、それはホームレスも寝られないというものでしょう。ホームレス排除もできて一石二鳥という訳です。あるいは、世界に誇る素晴らしい新宿駅から世界に誇る素晴らしい都庁までの道に、薄汚いホームレスがいることなど到底許容できず、その排除こそが第一の目的だったかもしれません。
 これこそが正に、動く歩道の作用、速度の作用です。
 翻って、この時のホームレス的なものこそ、真の抵抗と言えます。歩道で寝ること。もっと言えば、動く歩道で寝ること。
 物凄いスピードの動く歩道に無理やりダンボールハウスを作って住めば、本人も含めて死人が出るでしょう。自爆テロです。そうしたことをしなければ、動く歩道に抵抗できていない、ということです。でも、ホームレスは家がないからホームレスなのであって、迷惑と言われようが道で寝るしかありません。そして今や、すべての道が動いていますから、ホームレスはどこで寝てもテロリストになれるのです。
 漫画家が連載を休んでも、それは動く歩道で寝ているようなものです。漫画家も吹っ飛ぶし、読者も吹っ飛ぶし、出版社も吹っ飛びます。死人が出るかもしれません。でも寝ないと死ぬので、どっちみち死ぬなら寝て死んだ方がマシとも言えます。
 皆んなで話し合って動く歩道を少し調整してみましょう、というのは、大変結構なお話で、全く一ミリも可能性がないかというと、そこまでは言いません。しかしこれは、動く歩道のパワーというものを見誤っているもので、システムというのは人が作ったからといって、人の自由に動かせるものではありません。巨大な慣性が働き、それ自体が不死でありながら人の顔をした邪神、ネイション、法人、その他様々なものとして、わたしたち哀れで無力な生身の人間を切り刻んでいきます。話し合いによる歩道の調整というのは、何度も使っている言い方をするなら「改革レベル」ということで、それがゼロとは言いませんが、その程度のことしかできない絶望の方が、より深くわたしたちを地に縛り付けます。
 しかもこの話し合い自体、既にフラットな世界のパワーによって制御されてしまっています。話し合いは広場とか会議室で行いますが、会議室はフラット世界の管理下にあるので、この場所で世界のフラットさに反する発言をするのは命がけです。民主主義は資本主義に乗っ取られ、発言はそれこそPC的にがんじがらめにされ、会議は結論を出せず、その間に動く歩道は進んでいきます。
 もっと支離滅裂で筋の通らないことをしなければ、抵抗などできないのです。
 これは中毒患者を話し合いで説得しよう、というようなお話で、患者はあの手この手で屁理屈を捏ねて合理性を証そうとします。理屈などなんとでも言えるのです。閉じ込めて薬を抜いてみれば、言うことが変わりもするのです。それは非常に暴力的で、お上品なやり方ではありませんが。
 漫画というのも中毒性のもので、ずっと読んでいた連載を、何らかの事情でしばらく読めないでいると、あれほど楽しみだった続きが気にもならなくなることがあります。正にそうした中毒が途切れないように、出版社は週刊連載を維持したいのでしょうが、中毒にさせなければ漫画一つ読めない、この動く歩道の速度こそが、本当に狂ったものです。
 わたしは漫画が好きなので、中毒にならないでもそれなりに待てる強靭な精神を持ちたい。
 それはよく考えるとそれほど強靭というわけでもなく、一昔前なら誰もが持っていた程度の忍耐力なのでしょうが、今や動く歩道で寝るホームレスだけが持つ至宝となっています。
 歩道で寝なければいけません。
 もちろん、歩道で寝るのは「いけないこと」ですが、そういう悪い人にならなければ、「良い人」たちの世界に抵抗はできないのです。



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