広さの問題、とも思える。
村が狭ければ、極悪人というのは生きにくい。顔見知りばかりの世界であれば、信用の喪失は命取りになるし、良くも悪くも悪の芽は早めに摘まれる。逆に言えば、暗黙の相互監視が常に働いている息苦しい不自由な社会ということだ。
大抵の国で、都市は農村より犯罪率が高い。都会であれば、犯罪者は人混みに紛れることができる。しかし、都市は人が集まって都市になったのであり、そこに人が集まるということは、つまり少なからぬ人が都市を好んでいるということだ。そこには仕事があり、自由がある。
交通インフラが整い、ネットが世界を覆うことは、「世界が狭くなる」ことと言われているけれど、そこに住む人びとの頭数で言えば、巨大な都市が膨らんでいることに等しい。グローバリゼーションというのはそういうことだ。
巨大な都市であれば犯罪者は潜みやすいけれど、一方で、あるいはそれゆえにこそ、自警団的意識も強く働き、見つけ出し徹底的に叩く。フラットな世界で犯罪者はどこにでも逃げるけれど、自警団も同じように足が速く、どこまでも追いかけていく。
わたしたちの祖先は、長い長い間、極めて規模の小さな村の中で生きてきたのであって、認識できる頭数には限界がある。その限界を遥かに越えたところで、生活に結びつく何かが行われ、いつの間にか決定されていく。そういうことに、多くの人びとが不安と苛立ちを覚えている。
広さというのは相対的なもので、広ければ広い程良いとか、狭ければ狭い程良い、というものでもない。ただ、わたしたちの頭は、広さの拡大ほどの速度で変わってはいかない。常に人類学的余波と因習にとらわれていて、ゆっくりしか変わらない。
だから、どちらかが絶対的な善というのではなく、単に按配として、少し広くなりすぎているのではないかと思う。少なくとも、広くなっていく速度が速すぎる。
そういう意味では、国境も軽々に否定できない。かつてナショナリズムは広くする用具であったけれど、既に時代遅れになって、逆に狭くする抵抗として働いている。
もう、敵はナショナリズムなどというチンケなものではなくなってしまっている。
ネイションは邪神だけれど、もうサイヤ人が来た後のピッコロ大魔王だ。
もっと抵抗が必要で、わたしたちはもう少しだけ、狭くしようとしないといけない。
絶対的ではない、ただ見通しを遮る衝立のような小さな壁が、あちこちにできると良いと思っている。
植え込みくらいでもいい。
その小さな壁、植え込みを手入れすることで、人びとが生きていく。
大体、仕事というのはその程度のものだと思う。