『イスラム世界の人生相談―ニュースの裏側がよくわかる』西野正巳

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4884694627イスラム世界の人生相談―ニュースの裏側がよくわかる
西野 正巳
太陽出版 2006-04

 日本ではイスラームについての絶対的情報量が少ない上、欧米メディア経由のステレオタイプな報道が多く、また多くの日本人にとって、イスラームに限らず宗教というものそのものが、少し縁遠く敷居が高く感じられているでしょう。本書はイスラーム法学者のもとに寄せられた市井のムスリムからの相談を紹介したものですが、その内容は狭義の「宗教的」領域にとどまるものではなく、家庭生活や性の悩みなど、みのもんたに寄せられていてもおかしくないような悩み事がむしろ中心です。西野氏は、良くも悪くも「お堅い」イメージのムスリムについて、多様な面を見せたかった、と語っていますが、その狙いは成功していると言えるでしょう。
 ちなみに、随所に差し挟まれる西野氏のコメントや述懐も秀逸で、個人的に共感するところの多いスタンスでした。「クルアーンを最初に読んだ時は本当につまらなくて一ヶ月以上かかった」「しかしそれは、翻訳をしかも黙読したからであり、本当のクルアーンの読誦を聞けば、日本人でもその美しさがわかるはず」というのも、まったく同感です。

 これを読みながらつくづく感じたのは、人間というのは、自分で思っている以上に「善くありたい」と願っている、ということです。
 多くの人が、大人になるにつれ、世の中は単純な善悪ではできていない、ということを理解します。きれいごとでは世の中渡っていけませんし、善悪などという見方自体が青臭く、また善悪をハッキリつけようとすることが、かえって争いや不幸を招いてしまうことも多々あります。善く生きたからといって、現世ではそれほど報われるものではありません。
 でも、根本のところでは「善くありたい」のです。「お前は仕事もよくサボるし、浮気もしたし、中学の頃は万引きもした。よく嘘もつく。でも本質的には善い人間だ」と言って欲しいのです。例え殺人鬼でも、「本質的には」善い人間だ、と認めて欲しいはずです。
 この「本質的には」というところが、非常に重要です。
 あらゆる属性が「悪」であっても、「本質的には善」とは、一体何でしょうか。言語行為論的には「行為が悪なら、それは悪なのだ」とバッサリいってしまうかもしれません。「本質的」というのは、何か言っているようで何も言えていない、非常にまやかし的な言葉です。
 また、世俗化・個人主義化が進んだ社会であれば、意図が「清い」ものだとしても、結果が悪ならそれは悪とされる傾向が強まるでしょうし、この「悪」の定義も、「本質的悪」というより、プラグマティックな悪、要するに「他人に迷惑かけた」というようなドライなものになっていきます。
 では、「本質的には」というのは、まったく無意味な言葉なのでしょうか。
 そうではありません。正確には、その位置が空虚だからこそ、意味を成す言葉です。
 わたしたちの善悪は、しばしば互いに矛盾しています。善を貫徹しようとすると、必然的に悪い要素を連れてきてしまったり、善悪を巡る価値判断が衝突してしまうことがよくあります。この時、善悪を明示可能な領域、つまり「意味のある」ものに限局してしまうと、善は必然的に全体としての悪や不幸にたどり着いてしまいます。
 だからむしろ、善の宿る場所を空っぽにしておくのです。「お前は悪いことも色々したが、本質的には善い人間だ」と言えるようにしておくのです。
 これだけでは、慰撫的効果以外に何も生みませんが、まず第一に、この慰撫自体にも大きな効能があります。
 わたしたちは、物質的には何も満たされなかったとしても、ただ承認されるだけで、心を宥められることがよくあります。大人になってヤサぐれてしまった気でいても、わたしたちの中には必ず「子供」が残っています。その子供は、ただ認めて欲しいだけの子供です。この子供の力を、ポジティヴに使わない法はありません。ただ認めてあげるだけで、その人の内的心的プレッシャーはガス抜きされ、無用な諍いを避けることができるかもしれません。
 第二に、「本質的に善」にいつでもできるとしたら、逆に「お前はかなり善だ。あとここをちょっと直せば、バッチリ天国に行ける」と誘導する時、修正ポイントが互いに矛盾していたとしても、都合の良いように指導することができる、ということがあります。
 こう書くとなんだかズルい感じがしますが、「善とはコレなり」と外在化しガチガチに制度化してしまうと、かえってこの善が互いにぶつかり、諍いの種に成りかねません。だから、善は基本オッケーにしておくのです。基本オッケーで、「あとここちょっと」というのは、ケースバイケースでも大丈夫ですし、その方がその時々の社会や時流にフィットさせられるというものです。「これだけは守れ」というポイントは、「お前は本質的に善だ」と言える権威を維持できる、ギリギリ最小限くらいが丁度です。宗教権威だとしたら、その宗教の根本原理については、「これだけは守れ」に入れておく必要があります。

 話がズレましたが、本書には例えば「シースルーの服で礼拝に行ってもいいですか」などの、「トンデモ質問」も含まれています。無茶言うたらアカンよ!と思いますが、一方でそれだけ「世俗化」しているオンナノコでも、礼拝に参加したいと願っているわけです。どれだけ規範からズレた生活をしていても、「なんとか信仰的にOKと言ってもらえないだろうか」「少し直して正しく生きられないだろうか」と思うからこそ、ちょっと無茶な質問でも投げつけてくるのです。
 多くの人は、この「善く生きたい」という気持ちに、なかなか素直になれません。実は自分が「善く生きたい」のだ、ということに、気づけないこともあります。
 本当はそんなに難しい話ではなかったのに、「善く生きたい」ことに素直になれないでいると、どんどん心をこじらせていきます。「善く生きたい」と願っても、なかなか善くは生きられません。だからといって、「善く生きたい」心を裏切ってはいけません。一番大切なのは、「善く生きる」ことではありません。「善さ」とは、究極的には空っぽのものなのですから。そうではなく、「善く生きたい」という心を認めてあげることが、もっと大事なのです。

 シャーリーズ・セロン主演の『モンスター』という映画があります。レズビアンのホームレス女性が、売春をしながら次々と男を殺していく、という実話に基づく物語です。彼女はボロボロになりながら、最後の最後で泣きながらこう言います。「わたしは・・わたしは善い人間なんだ・・」。とても胸に迫ってくる台詞です。
 彼女のやったことは、到底「善い」ことではありません。自分でもよくよくわかってはいたでしょう。でも避けることができない。「止むにやまれず」とは言いません。別の道を選ぶチャンスもあったことでしょう。でも選べなかった。おそらくは弱さ故に。だから彼女にとっては、やはり「止むにやまれず」で、選択の余地がなかったことなのです。それ故に、「悪い」ことを重ねてしまっても、最後には「本質的には善い人間」と認めて欲しいのです。
 わたしたちは、自分で思っているほど自由を楽しめるわけでもないし、自由に作られてもいないし、選んでいるつもりで選ばされながら生きています。大人になれば、誰でもある程度は自覚することです。でもその中で、本当は「善く生きたい」んだ、ということを忘れてしまうと、どうしようもなく流されていってしまうことがあります。
 その時、例え完全に「善く」はできなくても、自分は「善く生きたい」と願っているんだ、ということを忘れないでいえれば、一線を越えないでいられるのではないか、そして信仰とは、このギリギリの「善く生きたい」を回収してあげる営みでもあるのではないか、そんな風に考えています。