理解しがたいものと失敗の探り当てるもの

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 世の中には「理解しがたい」ものは沢山あります。ある人にとっては「当たり前」でも、別の人にとっては「理解しがたい」こともよくあります。
 「理解しがたい」と言っている時、その頭には何らかの「正しさ」があって、大抵の場合はそういう「理解しがたい」ものは「少しおかしい」「間違っている」と感じていたりします。「いやいや、理解できないだけでそれはそれで結構だと思っているよ」と言われるかもしれません。そういう場合もあるでしょうし、少し引いて、何か趣味嗜好的な違いとしか見ない場合もありますし、もう少し近づいて、「理解しがたい迷妄」「理解しがたい野蛮」のような見方をしている時もあります。後者のように感がているけれど、角が立つので前者のように振る舞うこともあります。前者はいわゆる「何も言っていない相対主義」(だが社会生活上はとても有用)ですが、実のところ、後者とも地続きであって、質的差異があるわけでもありません。
 それはともかく、「理解しがたい」ものを理解したい時があります。
 わたしは以前に、某親族がイタコ芸で有名な某カルト宗教に傾倒していて、非常に嫌悪感を抱いたのですが、同時にそのようなものに惹かれている彼の心理、心の状態を内側から体験してみたい誘惑にもかられました。
 そしてまたある時、全然別の、こちらは大変メジャーな宗教の方に興味をひかれ、それに「理解しがたい」ザラザラした感覚を抱くと同時に、信仰する人の心を内側から味わってみたい、より強烈な欲望に囚われました。「内側から」というのは、外から文化人類学的に理解するのではなく(それはそれで楽しい行為ですが)、主観のレベルで追体験する、ということです。例えば赤が緑に見える人がいて、説明を受ければその人には赤が緑に見えていることは「理解できる」のですが、そういう理解ではなく、正に赤が緑に見えるという体験をすることです。
 そしてこちらの誘惑は以前の時の誘惑よりずっと強く、結果、結構なところまでは体験することになりました。一応その宗教の「信徒」なわけです。
 こういうものは、宗教でも趣味でもなんでもいいのですが、そういうものを「どれにしようかな」と遠くから眺めている時には起こりません。それらは所詮、外側から眺めて「こっちの方が大きい」とか「こっちの方が色が濃い」とか言っている状態であって、「理解しがたい」のその「かたさ」は少しも変わっていないわけです。別にそれがいけないとは言いませんが、欲がなさすぎるというか、今ひとつ退屈で面白くないのです。
 「理解しがたい」ものがあまりにザラザラと目立つ時、相手を叩き潰すか、あるいはまた自分が内側に入って食べてしまう(食べられてしまう)しかありません。ちょうど、受け入れがたい死を前にして、その死者の骨を食べるようなものです。
 もちろん、常にこのようなことが起こるわけではありません。ただ、わたしたちは時々、死者の骨を食べます。
 それは一歩引いている者の目から見れば、まったく必要のない行為であって、ある種の「失敗」なわけですが、わたしたちの生を導いているのは常にそういう失敗です。
 わたしは、わたしが今現在その内側にいる様々なものについて、知的に了解しているわけでも、すべてを肯定しているわけでもありません。この顔、この名前であることを「どれにしようかな」と選んだのではないように。そういうものは、ある種の「失敗」としてわたしを食べ、食べられたのです。
 ですから、わたしの食べた(食べられた)骨について、何か納得のいくような説明など求められても困るのです。それはわたしの顔であり、名前であり、そんなものに「理解」できる理由などないからです。
 そこには「正しさ」などないのです。「正しさ」であるとか、あるいは了解可能性というものは、一つの地平を開きます。その地平は一見すると公平かつ客観的で、「bon sens」を備える者なら等しく理解できるかのように見えるのですが、実のところまったくの閉じた世界、他者のなき世界であって、最初にいた場所から一歩も動いていないのです。そういう地平と地平がぶつかりあう「メタ的な地平」などいくらでも想定可能であって、そういうものは結局「理解しがたさ」というザラザラした世界の手触りについては何一つアプローチしていないのです。
 わたしは、わたしが知的に了解していることがらについては、すべてサタンか何かが妄想を注入しているだけとも想像可能で、経験から言っても大体の場合は間違っていると思っています。わたしが信じるのはわたしの失敗です。
 それこそが行き止まり、白杖が探り当てた見えざる段差であって、理解することはできないけれど確かにそこにある世界の輪郭なのです。



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