運欲

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 人は運というものを思いの外望んでいるものではないか、と最近考えています。

 誰しも色々なものを望みます。お金が欲しいとか、長生きしたいとか、彼氏・彼女が欲しいとか、勝負に勝ちたいとか、色々です。今挙げたものはどれも分かりやすいですし、大抵の人はそれらをいくらかは望んでいるということに自覚的でしょう。
 でも、例えば勝負に勝とうとした時、実力で勝つというのは当然嬉しいもので、これも大抵の人はある程度望んでいるものかと思いますが、それとは別に「運良く勝ってみたい」という欲があるのではないでしょうか。つまり、全然実力も伴っていなくて、普通にやったら負けるところなのに、ラッキーが重なって偶然に勝つ喜び、ということです。
 スポーツや学校の勉強などでしたら、割と「勝利」に必要な条件であるとか、努力の仕方というのが明晰なため、「実力」と「運」が割とはっきり弁別できますが、これが「好きな人に振り向いてもらう」とかになると、どこまで実力でどこまで運なのかというのはよく分かりません。ですから、より一層「単に運が良いだけ」に対する欲が大きく働くものでしょう。
 理性的で聡明な人物ほど、こうした「運」の要素、そして「運」に対する欲というものを軽視する傾向があるでしょう。それはそれで尤もです。運は制御できないから運なのであって、そんなことを四六時中考えていても何の生産性もないからです。運はさておき、実力でなんとかなるところに注力するのは当然のことです。人事を尽くして天命を待つ、ということです。
 しかしそういう人の見落としがちなのは、運というのが単にオマケ的に付いてくるものではなく、それ自体を望む欲というものが人の心の奥にはあるもので、拭い難く機能している、ということです。
 この「実力によらずに上手くいく」喜びが何なのだろう、と考えると、それは「選ばれた」喜びというか、自分の個別性・単独性への喜びのようなものではないか、と思い至ります。
 ラカンで言えば疎外と分離の分離のプロセスのようなもので、象徴化不可能な享楽を別の仕方で回復しようという営みとも言えます。「もの」の次元にある自分を再発見する喜び、ということです。そこで回復される「もの」は部分的なものに過ぎませんが、その毛布の切れ端のようなものさえ掴んでおけば「大丈夫」と思える、そういう喜びです。運さえ良ければ「大丈夫」なのです。

 病気や事故にあった人の話を聞くと、多くの人は、その人がなぜそんな病気におそわれたのか、なぜそんな事故にあったのか、考えようとします。週刊誌的興味が犯罪者の来歴や特殊性を執拗に語るように、「そんなことになったのは、その人が特別だったからだ(しかし自分は違うので大丈夫)」という安心を得ようとするのです。
 本当のところ、ある種の病気や事故は誰にでも起こりうるもので、さらに言えば犯罪加害者になってしまう可能性だって、ほとんどの人は持っているものです。交通事故で言えば、事故の被害者についても加害者についても、「防ぎ得た」落ち度というものはあったかもしれませんが、同時に単に「運が悪かっただけ」という要素は拭えないのです。
 多くの人はそのことを「知って」はいますが、そう考えると、自分もいつ恐ろしい災厄に見舞われるか不安な気持ちになりますし、なおかつ不安になったところで災厄を防ぐ上では何の役にも立ちませんから、なるべく不安から逃れるように「あの人は脂っこいものが好きだったから」とか「不注意だから」とか、果ては「在日だから」とか「アニメが好きだったから」とか、訳のわからない弁別項を見つけ出して、自分とは関係ないものにしておきたいのです。
 これらはどれも「愚かな」考えですが、不安が役に立たないのは事実ですし、どうせ災厄に見舞われるならその瞬間までは安心して暮らしたい、というのも尤もな考えですから、こうした防衛が働くこと自体を責めることはできません。防衛の過程で無用に他者を傷つけ、その結果、別の災厄を自らや社会に引き寄せてしまう、というところに問題がある訳で、つまり防衛そのものを排除するのではなく、防衛を認めた上で、その仕方を冷静に洗練させていくしか改善の道はないでしょう。
 ちなみに、これとは逆に、災厄に対して「本当に」備えようとする人たちもいます。万が一暴漢に襲われた時のために日々余りにも多くの時間を鍛錬に費やしたり、核シェルターを作ってしまうような人たちです。これも、実践しているうちに鍛錬そのものや核シェルターの所有自体が喜びとなるなら良いのですが、変に「初心」を忘れずに、本当に災厄を防ぐためだけに災厄以前の生活を大幅に犠牲にしてしまうとしたら、いささか倒錯的です。それくらいなら、災厄の時のことは諦めて、その瞬間までは平和に暮らしたい、という方がいくらかマシとも言えます(少なくとも周囲の人間にとっては迷惑が少ないでしょう)。
 一見するとこの防衛は最初の方法とは逆方向のようですが、要するに「逃れ得ない災厄」に対して不安を埋めるように理屈を重ねている点では変わりがありません。「逃れ得ない災厄」というものがあるとすれば、「自分だけは違う」というのも嘘なら、「自分は備えているから大丈夫」というのも機能する筈がありません。どんなに備えたところで、その備えの残余に振りかかるからこそ、災厄は災厄なのです。そして実際、そうした災厄というものは存在しますし、わたしたちは逃れることができません。

 「逃れ得ない災厄」とはなにかと言えば、それは運が潰えるということです。運が悪いのだから、運が良いということとは反対ではあるのですが、「運のもの」という点では、根拠のない幸運と同じ水準にあるものです。それはつまり、「もの」の次元ということで、語りえない何かに自分が落ち込む、ということです。
 そこは何せ「語りえない」ものなので、考えてもどうしようもないことではあるのですが、誰しもが薄々と、そうした次元が通奏低音的に自分たちの生を包囲していることに気づいています。
 幸運と不運なら、誰だって幸運が欲しいのですが、良い悪い以前に運というものがわたしたちを包囲していて、そこは「もの」の享楽の次元であると当時に、象徴界の中で指し示しうる「わたし」にとっては死と同義であるようなものがすぐそこを流れているのです。
 北野武の映画の中の台詞で「あんまり死ぬのを怖がってると死にたくなっちゃうんだよ」というのがありましたが、死ねばそれ以上死にません。ですから、運の領域というものがあまりに気になると、運に引きずられて運を試してみたくなるものです。試して運悪く死んでしまえばそれ以上死にませんし、運良く助かれば「あぁわたしはやはり運が良い、わたしは存在を許可されている、わたしの存在を世界が喜んでいる」と確かめることができます。
 「運の良さ」を求める欲というのは、より正確に言えば、運に触れる欲、運を試す欲、あるいは運に触れる欲のようなものです。良いか悪いかというのは、その後に来ることです。もっと言えば、幸運とか不運といった弁別は、「運自体」への欲をカモフラージュするための後付の説明に過ぎません。
 英語にtouch woodとかknock on woodという表現がありますが、木に触れて魔除けになるというのは、アースを接続するようなもので、運の領野、わたしたちが語りえない領域というものにちょっと触ってみて、実のところわたしたちが依然として「もの」と地続きである、そういうことを確かめる行いと言えます。

 重ね重ね、こうした行いは「愚かしい」ことで、何の役にも立ちません。聡明で理性的な人ほど軽んじるものです。しかしそこで「何かの役に立つ」という水準自体が、運の水準、「もの」の水準に包囲された狭い安全地帯にしか過ぎない、ということを、そうした人ほど見落としているところがあります。ラカン的文脈で「科学がものを排除している」といったような一見不可解なことが言われるのは、そうした意味においてでしょう。
 もちろん、だからといって、「運欲」に振り回されていては世の中で上手く生きていくことはできませんし、実際、上手く生きて行けていない人たちが沢山います。そういう人たちは、少なくとも自分が「運欲」に負けすぎているということくらいには気づいた方が、上手くやっていける筈ではあります。
 とはいえ、わたしたちは最後には運に負けるのですが。