吝嗇から身を守る

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 クルアーンの中で、非常にしばしば吝嗇が諌められていることは、何度も話題にしました。「我の恵んだものより与えよ(施せ、蕩尽せよ)」というメッセージが何度も見られます。別にイスラームに限らず、多くの古い教えで吝嗇は諌められるものでしょうし、現代においても端的に「カッコ悪い」とされているでしょう。
 言うまでもなく、吝嗇を避けるべきだとしても、何も考えずにパッパと使ってしまえ、ということではありません。将来に対し必要な備えをする、というのは吝嗇とは別の話です。
 つまり、避けるべきは過剰な蓄財であり、富の再分配をすすめなければいけない、と、とりあえずは受け止められます。実際、そういう意味はあるでしょうし、財において重要なのはその「移動」です。移動しなければお金はただの紙切れですし、「景気が悪い」というのも、お金が渋滞を起こしていることです。ちなみに、道路の真ん中に車を停めて「どいて欲しければ金よこせ」というのが利子であり、それゆえに利子(不当な高利)が禁じれられる、とも見られます。
 しかしこれらは一面的な見方であって、ここに教えを還元することは非常に危険です。
 信仰者たちの内部においても外部においても、こうした「宗教的教えを社会的効用に還元する」語らいがしばしば見られますが、その意図が肯定的なものであっても、根本的に倒錯した見方です。別に信仰は経済効果や「原始共産主義」の再現を「目的」としたものではありません。こうした見方は、豚肉の禁止を食中毒予防に還元するようなもので、結果としてそうした側面があったとしても、そんなものはオマケのお話です。信仰を外部から眺めて「文化」的な鑑賞の仕方をしている下衆な趣味の人々ばかりでなく、信仰者自身にもこのような語らいに溺れる人々がまま見られるのは、奇妙なことではありますが(もちろん、溺れない程度なら別にこういう見方が悪という訳ではないでしょう)。

 話を戻すと、吝嗇です。吝嗇とは何でしょうか。
 肛門的・強迫的なものです。一方向にだけ取り返しようもなく流れる一回的な時に対し、身を縮こまらせ、流れを止め、見ないようにする防衛です。単独的・一回的な世界を、循環的・円環的にのみ見ようしている、とも言えます。執拗なるホメオスタシスです。
 吝嗇は一見、至って自然なものに見えます。「誰だって多くの富を独り占めしたい」ということです。そして吝嗇に捕らわれた者は、その行いを「合理化」しようと語ります。無駄遣いはいけない、将来に備えなければいけない、あるいは「自分の力で稼いだものは全部自分のものだ、何が悪い」と。
 これらはどれも、一見すると欲に動かされた「本能的」「自然」なもので、これに対し何らかに倫理観なり道徳観念なりが規制をかけている、という見方が一般的でしょう。実際、ある程度の蓄えもって備える、というのは、一定の合理があります。
 しかし実際のところ、吝嗇の装う「自然さ」というのは、この症候を守るための防衛にすぎません。本当のところ、吝嗇はただ吝嗇のためにあります。つまり、肛門的・強迫的に身を守るために吝嗇があり、その吝嗇を守るために、合理化が行われている、ということです。
 どの程度「ケチ」であれば、その防衛的吝嗇であるのかは、もちろん線の引けるのものでありません。しかし多くの人々は、吝嗇の果てに何ら解放も安心もないことを分かっていながら、なおかつ吝嗇さから逃れることができません。わたし自身も、根が貧乏性なのでとても難しいです。大抵の人は、衛生上必要な以上に手を洗い続けています。幸福に生きるためにそこまではいらない、その果てに何がある訳でもない、と分かっていながら、これを解除することができません。解除しようという介入でもあれば、「貯金は良いことだろう」「自分には権利がある」と防衛しようとしてしまいます。

 何が言いたいかというと、吝嗇を諌める、ということのより深い意味は、この症候の解除、「治療」にある、ということです。ある人が吝嗇から解放されて、一番助かるのは、周りの貧乏人ではなく、当の本人です。
 もちろん、力づくで症状から引き剥がすだけでは、「治療」がうまくいく筈はありません。一つには、合理化に正面から抗わないよう、柔らかいアプローチをすること、第二に吝嗇に代わる「身を守る術」を提供すること、それから、そもそも吝嗇によって防ごうとしていた危険、根源的な不安に対して、仲裁を与えることです。
 第一の方法は、割りと世俗的なお話で、例えば気前よく施す者に対する社会的敬意などがこれです。施した者は、お金は失っても名誉を買える訳ですから、世俗的な文脈での合理化によって自らを説得できます。「これはこれで良い買い物をしたワイ」というわけです。
 第二の方法は、根本的な「治療」ではありません。単に症状をすり替えるだけです。ただ、どの道わたしたちは症候の奴隷です。「自分を王だと思う人間が狂人だとすれば、自分を王と思う王もやはり狂人である」。せいぜいできることは「正しく狂う」ことで、その正しさというのは、「政治的正しさ」のようなものでしかありません。信仰実践やその他の吝嗇に対する仲裁は、しばしばルーチン的な儀式行為を提供しますが、これはほとんど症状のすり替えと言っても良いでしょう。逆に言えば、これらの行為が「何時間も手を洗い続ける」ような種類になった時には、既に別の陥穽にはまり込んでいます。これを「宗教」だと思っている宗教者・非宗教者が沢山いますが。
 第三のアプローチは根源的なものですが、それゆえに困難で、完全に成し遂げられることはありません。完遂すれば「悟りを開いた」ことにでもなるのでしょう。根本的であるがゆえに、危険もあり、時に神秘主義的・オカルト的な迷妄に嵌り込みます。一方で、信仰の本当の力というのは、ここにこそ宿るものの筈です。「我の与えしものから蕩尽せよ」と主の語りかけられる時、この心安らがせる力は絶大です。わたしの元にあるものは、主より来て主に帰るのであり、わたし自身もまた、主へと帰る。この流れの中での吝嗇とは、交通渋滞であり、それに拘泥することは、道路に車を停めてゴネているのと一緒です。そんなことより、車を走らせて静かに目的地へと向かう方が良い。そういう楽な気分に自然にさせてくれる力を、軽んじることはできません。

 「他人のため」というのは道徳の教科書的な発想であり、信仰の主眼ではないでしょう。自分のためで良い筈です。人間はそんなに立派なものではないですし、どうしようもないクズにもできなければ信仰ではありません。自分のためにやったことが、結果として全体のためになるような道を、いかなる人間知性をも越える形で先に示すのが信仰ではないかと、考えています。



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