死んだら死んだでそれはそれでいい、と思えなければ、自由になどなれるわけがない。
どの道必ず死ぬのだし、だから人間は自由なのだ。
死ぬより死なない方が良いとして、より安全そうな道と危険そうな道があれば、安全そうな道を選ぶのは道理だ。しかしそういう選択を抽象化し、最果てに究極の安全を求めると不自由になる。
選ぶというのはパッと選ぶもので、選んだらオサラバ、何一つ後につながらないものだと思わなければいけない。
財=善(good)にしても同じことで、今日失うか、明日失うか、最後までもつけれどこの世と別れる時に全部置いていくことになるか、という違いに過ぎない。
それはもちろん、誰でも知っているのだけれど、オサラバということが分かりきっていない。
なぜなら、それは分からないものだからだ。
不可能なものだからだ。
分からないことは空白にしておく。それではダメだ。分かることだけを考えて、「よりマシ」な方を選ぼうとしていると、どんどん窮屈になり不自由になる。
テストだって、分からないなりにヤマカンを書いておいた方がいい。
分かることには、分かることの答え方がある。
分からないことには、分からないことの答え方がある。
小賢しくなると、分かることには真摯に向き合い、まじめに答えるが、分からないことは単に分からないで放っておくようになる。
そしてどんどん不自由になり、不幸になり、生は牢獄のようになる。
分からないことに答えられなければいけない。
分かるも結構、分からざるも結構、と思えなければ、自由になどなれるわけがない。
世の中には分からないこと、答えようもないことがあり、だから人間は自由なのだ。
死ぬということがどういうことなのか、それは分からない。
無かもしれない。
しかしそれは単に、空欄のまま答案を出すようなものだ。
それが何なのか、何も語れないからだ。
分からないものは分からないし、わたしは知らないが、誰かが知っている。わたしはそういう人を、我らが主だと信じている。
ここで信じているようなことが、信じるということだ。信じることのすべてではないが、それが信じるということだ。
だから分からないことにも、答えは書ける。
正解かどうかは、わたしは知らない。そんなことは重要ではない。どの道死ねば分かる。
パッと選べるかどうかが大事だ。
パッと選べると自由になり、どんなことだって起こりうると思う。
そしてどんなことだって起こりうるということが、幸いとして受け止められる。
どの道どんなことだって起こりうるのだから、パッと選べなければ人は不安で生きていることが苦痛になる。
パッと選べるには、多少練習が必要だ。
自転車だって、生まれた時から乗れたわけではない。
昔の人の方が自転車が上手だった。今の人は小賢しくなって、より色々分かるようになって、ヤマカンの答えが書けなくなった。確信がないから遅い。遅いから不自由で憂鬱になる。
でもそれは単に練習の問題だから、やればできる。
信じるには練習が必要で、信じるというのはどういうことなのか、できるようにならなければ分からない。
自転車だって、あれこれ説明を聞いてできるようになるものではない。できてしまえば、説明など蛇足だ。できない人にも、説明は役に立たない。要するに説明はいつも役に立たない。
説明ばかり求めている人は、何時まで経っても何もできないし、不自由なままだ。
自転車に乗りたければ、自転車に乗るしかない。
信じるのも一緒だ。
それしか自由になる方法はない。
物事を外側から眺めて「珍しい風習」を蒐集するような見方が多すぎる。
そういうことは学者にでも任せておけばいい。学者というのは芸人と一緒で、世の中に常にいくらかはいるものだけれど、沢山いすぎるてもどうしようもないものだ。子供が「将来芸人になりたい」と言えば、諭すのが親の仕事だ。それでもなるヤツはなる。それはそれでいい。学者も同じ程度のものだ。
そんなやり方では自由になれない。遅すぎる。自転車に乗れない。
自転車の乗り方について延々と語る、という趣味があってもいい。
しかしそれは自転車に乗ることとは全然関係ないし、そんなヤツが大勢いても仕方がない。
自転車に乗れないのに自転車について語るヤツがいても、それは山師というものだ。誰もそんな話は聞かない。
何も語れないけれど自転車に乗れる方がずっとマシだ。百人中九十九人まで、ただ自転車に乗るだけでいい。
自転車に乗れてかつ語れるヤツがいれば、それは自転車博士で、立派なものだけれど、百人が百人そんな調子では鬱陶しくて仕方がない。
ただ自転車に乗ればいい。
死んだら死んだでそれはそれでいい、と思えなければ、自由になどなれるわけがない。
どの道必ず死ぬのだし、だから人間は自由なのだ。