隙間の返却

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心は移ろうが神は移ろいゆかない。
わたしたちはわたしたちの心の原因を知らない。だからギリシャ人は、その著述の中で、今日なら感情や感覚として扱われるであろうことを、神を主体として描いたのだろう。
それがそう描かれるということは、実際に心が神のものだからだ。
だからむしろ、疑問として立てられるべきは、わたしたちが、わたしたちの預かり知らないことについて、尚わたしたち自身のものだと、なぜ言えているのか、ということだ。
ここで即座に現代人の涜神を言うのは早計で、かつ敬神でもない。
わたしたちがわたしたちの原因を知らないということ以上に重要なのは、その預かり知らないことについて、尚引き受けうるという、この中間の領域が存在することだ。
丁度、すべての行為が神の創造による一方、わたしたちがそれを「感覚」として知りうる限りにおいて、行為の責任を引き受けなければならないように。
つまり、自由なきままに責任を負うことには理があるのだが(自由なきゆえに責任を放棄する極論は、素朴決定論者の言い分のようなものだ)、この矛盾を止揚するロジックを、現代社会が失ってしまっている、ということに問題がある。
この喪失は半ば「意図的」なものだ。というのも、喪失に乗じて、様々な偶像が隙間を搾取しているからだ。自由と責任の間の飛躍を、ネイションが、企業が、フェティッシュとしての貨幣が、搾取している。
だから、わたしたちに必要なのは、素朴決定論者のような見せかけの敬神を演じることではなく、矛盾と隙間を認めた上で、その領域を唯一の神の元に返すことだ。
わたしたちの心は神のものだが、同時に、その不確かさのすべてと共に、わたしたちのものとして語ることができる。
الله أكبر