『ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か』内藤正典

シェアする

4004309050ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か (岩波新書)
内藤 正典
岩波書店 2004-08

 ヨーロッパにおける移民政策とムスリム移民の現状について扱った一冊。主にドイツ、オランダ、フランスの三国が扱われ、特にドイツにほぼ半分の紙数が割かれています。
 内藤正典先生の本は、金太郎飴式にどれをとっても似たような話なので(笑)、軽くデジャヴュ感を覚えたのですが(もしかすると本当にこの本買うの二度目かもしれません・・)、各国の移民政策の違いと、現在の移民問題につながる歴史的経緯が極めて簡潔にまとめられた良書です。
 いきなり余談ですが、こういう「金太郎飴」的な性質というのは、悪いことではない、というかむしろ良いことだと思っています。一人の人間が生涯に背負う問題系なんて、そんなに幅広いものではないでしょうし、手を変え品を変え同じことを言い続ける方が真っ当です。ちょっと変えてまた出して、印税稼いで貰ったらいいんです。酒井啓子先生なんて、毎年のように新書出してるじゃないですか(笑)。
 本題に戻ると、特に面白かったのは、血統主義的な民族観を持つドイツ。彼らは移民に対し、「ドイツにいる以上、ドイツの文化や規範に従って欲しい」と要求はするのですが、これは「同化」の要求とは少し異なるわけです。というのも、血統主義に立つ限り、そもそも「同化」など不可能なわけですから。一方でこれは、移民の側から見れば「同化」の要求に映る。そして、精一杯「同化」したつもりでも、結局「同化」はできない。原理上、最初からできないようにできているわけです。
 これが興味深いのは、筆者の指摘している通り、日本と似ているからです。

 この点に関するドイツ人の感覚は、日本人にはよくわかるはずである。この態度は、日本人が在日外国人に要求する態度と似ている。一方で「郷に入らば郷に従え」と言う。しかし日本語を流暢に話しても、顔かたちが異なる人を「外人」として処遇し、なかなか同じ社会のメンバーとはみなさない。在日外国人の立場に立つと、日本社会の態度は、同化を求めているように見えて、結局は同化を認めていないという矛盾したものに写っている。

 一方でフランスは、共和国の理念を受け入れ契約を結ぶものを国民として受け入れる者は国民とみなすわけですが、逆に言えば「同化」が要求され、また現実的な経済格差は歴然としています。オランダは多元主義的政策を取るため、両国に比べると比較的「ムスリムがムスリムらしい暮らしを保ちつつ共存できる」傾向がありますが、この多元主義は相互理解にもとづくというより「他人のことに顔を突っ込むな」というだけのもので1、加えて、昨今では排外主義的傾向が強まりつつある、とのことです。
 
 興味深かったところを簡単に拾っておきます。
 一つは、例によってスカーフの問題。これに関して、以下の指摘は非常に鋭いです。

 この論争に関して、ドイツ社会には見えていない点がある。髪を身体の性的な部分と認識している女性に向かって、スカーフを取れと命じることがセクシュアル・ハラスメントにあたることに気づかないのである。羞恥心からスカーフを被っている女性が存在するにもかかわらず、スカーフを着用するという行為を、原理主義だ、民主主義や人権に反する、と一括りにしてしまうのは、なぜなのだろうか。

 念のためですが、ここにスカーフ問題のすべてが回収される訳では勿論ありません。ヒジャーブを被っている人も色々で、その位置づけ方も一つではないからです。ヒジャーブを抑圧の象徴として批判する向きもありますが、本当に抑圧だと感じていて、できればしたくないと思っている女性だっているでしょう。個人的には、そういう人は無理にヒジャーブなんか被るべきではないと思っています。重要なのは、ヒジャーブ一つとってもその位置づけ方は様々なのに、政治的意図に回収して一元的に解釈してしまうのは乱暴に過ぎる、ということです。
 
 もう一点、啓蒙主義や合理主義の評価について。

(・・・)ヨーロッパ社会では、中世の時代に教会が人間の自由を縛っていた。だからこそ、こうした宗教に由来する道徳から自由になることを歴史的な進歩と思い込んだ。こうして啓蒙主義や合理主義は、近代から現代にいたる発展のなかで、オランダのみならず、広くヨーロッパ社会で共有されるようになった。
 しかし、その一方でヨーロッパ社会には、自分たちの社会がたどってきた道筋を、ひょっとしたら「退化」ではないかと疑う思考回路が欠落していた。そしてこの欠落はムスリムの社会認識と大いに異なる点である。ムスリムは、たえず自分の暮らしている国家や社会が、イスラームに反する方向に進んでいるのではないかという懐疑の念を抱いている。近代以降、西欧の圧倒的な力の前に、次々と西欧的システムの導入を余儀なくされた中東・イスラーム世界諸国では、とりわけこの思いが強い。

 もちろん、西欧の文脈でも啓蒙主義や合理主義に対する批判はあるわけですが、多くの市民は、漠然と自分たちが「進歩」していっていることに疑いを持っていないでしょう。
 この指摘自体が鋭く示唆に富んでいますが、ここからちょっと余談に入ると、「基本的に世の中は良くなっていっている」という認識が共有されるというのは、人類の歴史上それほど一般的なことだったのでしょうか。イスラームでは、預言者の時代とそれに続く正統カリフ時代が最良の時で2、それ以降は基本的に「段々ダメになっていっている」感がぼんやりと分有されているように思います(もちろん、物質技術的にはアッバース朝時代などに大いに進歩しているわけですが)。こうした「昔は良かった、今は堕落している」という感覚は、おそらく文化を問わず広く偏在しているものではないかと、思われます。
 これは本当に余談なのですが、こういう「世も末だねぇ」とブツクサ言いながらボチボチやっていく、という「世の中観」というのは、ネガティヴなようで結構救いがあるんじゃないかな、と思うことがあります。「基本的に成長」「その場に留まることは退化だ」という見方は、非常に熾烈ですよ。ちょっと止まって足踏みしているだけで、人間失格みたいな錯覚に陥らせるものです。人間、大抵はそんな立派なものには生まれついていませんし、立派じゃなくても別に罪ではないです。
 大体、努力なり何なりがリニアに反映されて発展していく、などということが稀有なのであって、すべてはアッラーのご意志次第でしょう。エジプトの諺で、確か「急いでもゆっくり行っても同じ渡し船に乗る」といった意味のものがあったと思うのですが、テスト勉強じゃないんですから、世の中、頑張っても結局渡し船で追いつかれるようなことが大概でしょう3。世の中どんどん進歩して成長していくなんて考えても、一見ポジティヴなようで疲れるだけです。基本ネガティヴに考えておけば、うまくいった時のアッラーへの感謝も一塩ですし、ダメでもともとでしょう。千年一日の如く、曾孫の代に刈り取るくらいの気持ちで生きていたっていいんじゃないですかね。
 最後がすっかり関係ない話になりましたが、気楽に読める一冊ですから、イスラームに限らず移民問題に関心のある方は目を通されて損はないでしょう。

  1. 個人的には、それでも他人のことを放っておいてくれるオランダの国家としての方針は肯定的に受け止められると思っています。イスラーム的な理念に忠実に考えるなら、むしろ共同体は「お節介」、つまり価値判断が政治に反映されるべきはずで、オランダとは逆方向なのですが、オランダという国家は別にイスラームのウンマではないわけで、そんな政策を取る義理もありません。これはなかなか逆説的で皮肉な現状です。イスラームがカリフ制などの形で属人的支配(地理的制約を越えた介入)を実現すれば、こういう「国家」のあり方は、結果としてイスラーム親和的で、共存し易いかと思いますが・・ []
  2. その正統カリフ時代も、かなりイスラーム寄りの歴史を読んでも、何だかもう仲間割れに継ぐ仲間割れで、「正統カリフの時代からこんな調子なんじゃ、今まとまんないのも仕方ないねコリャ」とか遠い目をしてしまうのは、内緒です(笑) []
  3. だからこそ、個人的には、楽しみとしてのテスト勉強は大変好きです []