擬態という性質を持つ生き物がいる。危険な虫の形や模様を真似して生き延びるものたちだ。
擬態というのは人間が見て「似せている」と思っているだけで、虫に「その模様はカバマダラの真似ですか」と聞いても答えてくれない(きっと答えたら擬態がバレてしまうからだろう!)。
正確に言えば、似ている模様のものが生き残っただけで、当人たちは似せているつもりもないと言える。少なくとも進化論的にはそうだ。
ここには非常にスリリングでエロティックな思考の契機があり、それはつまり、「見る以前に見られている」という視覚の性質だ(視覚をほとんどもたない生き物でも、擬態を使うことはできる)。これについてラカンより美しく語れる人を知らない。
見る以前に見られているが、見られていることすら知らないまま、見られることにより存在している。
わたしたちは、自然選択の結果として生き残った形を、似せたものとして理解する。例えば、ここで似させたものをアッラーという。虫はきっと、似せるつもりはなかったのだろう。
これは「自然」に人称を与えているのではない。わたしたちが、「わたしたち」として存在する限りにおいて、神が存在する、ということだ。
重要なのは、その「わたしたち」は、同時に「自然選択」という解釈も理解できるということで(そしてもちろん、他の多くの解釈も!)、その限りにおいて、本当は進化論と信仰は少しも矛盾しない。
わたしはわたしの存在において神を知る。
もちろん、それで神様についてのお話が終わるわけではないし、この後のお話の方がずっと長く現実的なのだけれど。
擬態を「知る」限りにおいて、わたしたちは、わたしたちがまだ気づいていない擬態を想定できる。
人類を欺くための擬態があって、しかもまだ騙されているのかもしれない。
この想定可能性においても、神を知ることができるが、これは存在から神を知るのとは別の話で、二番目に来るものだろう。
共産主義者である限りにおいて無神論者であるはずのジジェクは、三位一体の聖霊を「信仰共同体」に対応させる。イスラームでは、ウンマは全体としては無謬であると言う。
こういう風に言えば、信仰がピンと来ない人にも理解し易いだろうし、少なくともわたしは、最初はそういう風に考えることから始めた。
ただ、この考え方でまだ不十分なのは、依然としてわたしが存在している、ということだ。
だからわたしはアッラーを信じている。