筆不精者の雑彙 : 統一協会が秋葉原でデモ行進 「児童ポルノ規制強化」を訴えるという記事が話題になっていました。
この記事で面白いのは、秋葉原というデモの場の選択に疑念を呈する以下の下りです。
皮肉な言い方をすれば、秋葉原に集うオタクな人々ほど、ある意味「純潔」や「貞操」を守っている人々はいなさそうですから――それこそ、魔法が使えてしまいそうなほど。それは貞操を守るというより、放擲する機会に恵まれなかっただけかもしれませんが。
なるほど、確かに「オタク」な人々は統一教会1の人々が批判する「性の乱れ」からは一番遠いとも言えます。そう思って最初は納得しかけたのですが、もう少し考えると、ブログ記者もまた彼らの主張を読み違えているのではないか、と気づきました。
「性の乱れ」を批判し性風俗等の規制を訴える人々が主張しているのは、性的行為や欲望を規制せよ、ということではなく、性欲は大いに保ったまま、その「使い方」を規制せよ、ということなのです。
ですから「草食」であったり、二次元にしか欲望できなかったりするのは、「貞淑」の訴えに合致するどころか、キチンと敵対しているのです。「欲望せよ、ただし正しい仕方で」というのが、「倫理派」の訴えなのです。一周回って、彼らの秋葉原でのデモは「正しい場所」を狙って行われたことになります。
もちろん、統一教会の一般信者一人一人が、こうしたことを意識化できているということはないでしょう。ほとんどの人は、単なるイメージで秋葉原を選んだだけの筈です。
彼ら自身は意識化できていませんが、背後にあるメッセージとは「欲望せよ、ただし正しい仕方で」なのです。欲望自体は寧ろないと困るのです。
こうした捩れがどこから来たのかと考えると、元々「欲望の方法」あるいは「欲望の様式」を規定したはずの性規範が、欲望そのもの規制と読み違えられていったことに由来するでしょう。
イスラームでは規範対象が欲望ではなくその様式なのだ、ということが明瞭ですが、日本においてもおそらく、近代以前には欲望そのものを否定するような思想は一般的ではなかった筈です。仏教や修験道の一部には世俗を離れて欲望そのものを否定する流れがありますが、良くも悪くも仏教には聖性を世俗から分離してしまう傾向がありますし、一般大衆には無縁なものだったでしょう。
日本における「欲望そのものの否定」の由来は、世俗化した西欧キリスト教文明であると思われます。あくまで「キリスト教文明における世俗文化」であって、キリスト教そのものではありません。その上澄みの部分だけが近代化と共に移植され、奇形的に増殖を遂げたのが、日本的「お上品さ」なのではないでしょうか。
欲望そのものを断つような思想では、一部の聖人君子でもなければ屈折が生じたり、抑圧の末の捻れた症状を発するのも無理なからんことです。もちろん、個々人がこれを屈折として自覚するわけではありませんし、もとより症候こそ自我なわけで、ここに「アイデンティティ」を見出す人々が現れるのも不自然ではありません。ただ、こうした自我の肥大を信仰の成れの果てが招いたのだとしたら、本来の教えに反するとしか考えられません。
ヨーロッパ的な「タブーへの挑戦」的自由の履き違えというのも、結局元より規制する必要のなかった欲望そのものが抑圧された結果のように見えます。
多くのネット言論を敵に回すことになるでしょうが、わたしはポルノや「出会い系」、性風俗規制そのものには賛成です。「表現の自由」などたたき潰してしまえば良いと思っています。自由が何よりも優先されるような思想こそバイアスと知るべきです。その自由の末に彼らは何を手に入れるというのでしょうか。
規制反対派の一部に「ガス抜き」としてポルノ表現等を肯定する向きがありますが2、「ガス抜き」だったら尚の事ガスなど抜かせないようにしなければなりません。規制の目的は欲望の否定ではなく、「欲望せよ」という命令であり、欲望とは余白margeに向けて投げられるものである以上、ヒトならぬシステムや社会が余白を余さず埋めてしまってはならないのです。
上の点は一旦留保するとしても、歪んだキリスト教文明世俗社会が生み出した奇妙な「潔癖主義」が、巡り巡って日本的「お上品さ」の暴走につながり、更にキリスト教系カルト集団のデモに至っているのだとしたら、なかなか興味深い風景です。
カルトという「宗教」の有り様自体、近代世俗社会の産物ですが、こうした症候も故なきものではなく、その存在自体が当人たちの意図を越えて一面の真理を射当てているようにも見えます。
まぁ、統一教会そのものは端的に殲滅すべき敵ですが。