牡牛と信号―“物語”としてのネパール 山本 真弓 春風社 2002-11 |
『言語的近代を超えて』『ネパール人の暮らしと政治』に続いて、山本真弓氏の著書。氏の研究対象であるネパール自体にほとんど興味がないにも関わらず、すっかりこの人の文章が気に入ってしまいました。
いきなり内容と関係ない話ですが、この本は装丁が素晴らしい。
アマゾンで画像を見た時はむしろ垢抜けない印象だったのですが、手にしてみると、表紙の素材、デザイン、フォントがとても美しくできています。また、本の厚さや本文のレイアウト、フォントサイズも絶妙で、ブックフェチにとっては堪らない一冊です。
奥付を見ると、矢萩多聞さんという方がデザインされています。検索したらブログも運営されていました。こちらに簡潔なインタビュー記事があります。矢萩多聞さん、要注目です。
ようやく本題ですが、本書はネパールを巡る山本真弓氏の試論集のような構成。表題となっている「牡牛と信号」という章は、「先進国」による援助の実態と滑稽さが描かれています。
「信号」というのは、日本の政府開発援助で作られた交通信号のことです(牡牛の話の方が面白いのですが、読んでのお楽しみに)。
どの方向へ向かう車が、どの信号機の指示に従うべきなのか、信号機というものに慣れていないネパールの人たちには、よくわからないんじゃないかと思っていると、案の定、信号機の下に交通警察官が立って、車と人に、手旗信号で指示を出していた。信号機のサインが何を意味するかについては、それでもやがて、わたしたちみながそうであるように、ネパールの人たちもまた、経験によって習得していくのだろう。けれども、日本式信号システムの導入によって出現した、そこだけハサミで切り取って貼り付けたような<日本の風景>は、いつまでもカトマンズの街に溶け込まない気がした。わたしは、外国人としての意識を持ちながら、カトマンズで暮らしていたから、そこで<日本の風景>に出会うたびに、職場で唐突に母親と顔を合わせたみたいなヘンな気分に襲われていたものだった。
このように、「ヒマラヤと神秘の国」幻想の向こうにあるネパールの現実やいわゆる南北問題が扱われている部分がほとんどなのですが、注目したいのは、それを描く山本氏の文体や表現です。上の下りは、本書の中ではかなり「社会派」ぎみの個所なのですが、それでも「職場で唐突に母親と顔を合わせたみたいな」等、クラッときそうな美しい一節が入っていたりします。
「自分の内側にばかり興味が行っていた」と少女時代を振り返り、そんな自分が世界を飛び回る研究者になろうとは、と述懐する山本氏ですが、氏のテクストは、外の世界が内側を経由してやってくるから、ジャーナリストの文章とも普通の研究者の文章とも異なる、独特の文学的味わいを醸し出せるのではないでしょうか。
後半には、『カトマンズへの道』という、ネパールで一時話題になった短編小説が素材として取り上げられているのですが、個人的に苦手な性風俗の描写などあり、むしろ氏の日常視点からの方が素直に味わえました。
一番素晴らしいのは、「ウッタムの死」という章。裕福な家庭に生まれ、ネパールにいれば何不自由なく暮らせたはずの青年が、日本に出稼ぎに出て、そのまま失踪。行方が知れなかったある日、カトマンズの路上でほとんど野垂れ死に近い形で発見されるまでの物語です。
本書はフィクショナルな本ではないのですが、上質の短編小説集を読んでいるような気分になります。
装丁の美しさと合わせて、手元に置いておいて損のない一冊でしょう。