廃墟の写真は本当にイヤになるほど見ている、見ざるを得ないのだけれど、大体定番というのがあるので、行ったことのある場所については「ああ、あそこか」と思う。しかし、写真で見ただけの場所を別の写真で見ても、結構わからない。
端的に、その場に行っていれば得ている情報量が違うからだが、この時注意すべきなのはその情報の豊かさの方で、場にいてしまった、ということが写真を邪魔する。なおかつ、場にいなければ(普通は)写真の撮りようがない。
病床で写真を見てくれている人の話を書いたが、そういう人が見るものとして写真を考え、書けないといけないと思う。
それは対象とか現場というものが実在し、その場にいなくてもさもそこにいるような表象を目指す、という意味ではまったくなく、表象こそが最初に存在する、ということだ。
そして表象の向こうにはなにもない。と言いたいところだが、何かはある。到達不能なものがrepresentされるという矛盾について、西洋哲学史の中で無数の語らいが紡がれたが、そこの詳細はいい。現実はある。が、例えばわたしがある現場に居合わせ、それを語るとして、その端的な事実に基づいてわたしが現実に接地したわけではない。到達していない。していないが、信じる、という意味において、病床で見る夢に等しい。
多分、わたしの本体も、病院のベッドから一歩も出ていない。そこで夢見る方のわたしへと身を預ける。