民族博物館の不快と神社モスク化計画

 放送大学をぼんやり見ていたら、野外民族博物館のような場所が取材されていました。
 アイヌの人々の伝統的な住居や、古代の暮らし?のようなものや、世界各地の民族の住居が再現され、見学者が中に入って楽しめる、というものです。
 テーマパークとしては面白いのかもしれませんが、何とも言えない気味の悪さを感じました。
 一体何が気味悪いのでしょう。
 学芸員のような方が「こうした転じて彼らの暮らしへの理解を深めて頂きたい」といったようなことを言っていたのですが、この「彼ら」というのが、何とも気持ち悪い。
 あんな人気のない高床式倉庫だか何だかを作るなら、ホームレスを住まわせればいい。人の住んでいないものの何が生活だ。「彼ら」ではなく「我々の暮らしを是非見て頂きたい!」と言えないなら、民族の暮らしもヘッタクレもない。
 いや、これが暴論で筋も通っていないのは百も承知なのですが、あの外側から観察してガクモンする、という態度が、ひたすらにつまんなくてイライラするのです。
 ということを、テレビを見ながら銭湯のオバチャン級に身近な御方にぶちまけていたら、取材されている学芸員のような人が「今後は、イスラームの人々の暮らしも展示したい」というようなことを言い出しました。
 じゃあモスクにでも来いよ。アホか。
 というか、竪穴式住居に普通のムスリムが勝手に住んで、「この竪穴がイスラームの知恵です」とかテキトーな解説をドヤ顔で言った方が百倍面白くて身があるでしょう。イスラームの暮らしって何だ一体。わたしは普通の集合住宅に住んでガスコンロで煮物作ったりしていますが、これはイスラームの暮らし何でしょうか。

 何でしょうね。遠くから眺めて学問的価値だか歴史的ナンタラだかの為に、訳の分からない遺跡やらを後生大事にしている態度がムカツクのでしょうかね。自分でもよく分かりません。
 ターリバーンがバーミヤンの大仏を爆破したのも、大正解だと思うのですが(もちろん外交戦略的には大失敗)、大仏を信じてもいなければ、歴史的研究にも大して興味のない人間が、行きもしない大仏爆破に憤ったりするのは一体どういう理屈なのでしょう。それで住民の士気が上がるなら、断固爆破の方を支持したいですが(士気が上がるかどうかは知らない。多分みんなどうでもいいと思う)。

 話は変わりますが、わたしは神社がかなり好きです。
 正確には、散歩中毒者なので、色んな町を散策していると、空間に残された時間的堆積を感じる結節点に、神社というものが建っているのです。道が変な風にくねっていると思うと、三叉路の真ん中に神社があったりする。こういう、時間が空間化している場というのは、実に面白いです。
 そんな事情もあって、ジャーヒリーヤの偶像崇拝と神道における神社(この神道というのが実のところかなり近代的なフィクションに過ぎない、といった論点はおいて、少なくとも神社そのもの)は、何か違うんじゃないか、という気持ちが強かったのですが、石に変な神を巻きつけて飾ってあるのなどを眺めると、単に身内贔屓なだけで、あんまり変わらないんじゃないか、と思えてきました。
 実際のところ、アラビア半島の偶像崇拝者の信仰というのも、多くの日本人がスピリチュアルとかにかぶれてとりあえず神社に遊びに行ってみたりするのと大して変わらないレベルだったのかもしれません。

 これがどう民族博物館の件から連想されたのかと言うと、「文化なのか信仰なのかどっちなんだ」という苛立ちが媒介しているのでしょう。
 というのは、多くの「近代的」文脈で、「文化なのか信仰なのか」という問いは問われず、そもそも信仰は文化の一ジャンルに収められて、綺麗に展示品化されているからです。「文化なのか信仰なのかどっちなんだ」と問うことは、「信仰は文化ではない」ということを突きつけるためです。文化だか何だか、鍋とか包丁の仲間みたいなものにされてヘラヘラしているようなものは、信仰の風上に置けません。
 ですから、神社を巡る葛藤というのは、信仰と信仰のぶつかりではなく、信仰と文化のぶつかりなのです。信仰と信仰のぶつかりなら、まだその方が面白い。でも多分、神社に立ち向かった時に返ってくる反動というのは、大して興味もない大仏が吹っ飛ばされて何だか分かんないけど悪いことだ、と憤っているのと同じくらい、文化鍋な勢力がほとんどでしょう。もちろん、すべてではなく、信仰で返してくる本気な人も少数ながら存在するでしょうが。

 文化と信仰の戦いにおいて、この現場に居合わせたムスリムはどう行動すべきなのでしょう。
 わたしは神社が好きです。犬が「かつてそこにいた別の犬」の痕跡を空間の中に読み込み、時間の地図を感じるように、時の堆積の匂いがするからです。
 しかし今現在、そこを支配しているのは、単なる文化鍋とスピリチュアルでしかない。
 とするなら、多分正解は、マッカ入城におけるムハンマド様のように、カーバそのものを尊重しながら、そこに置かれた石ころを打ち砕くことでしょう。預言者様が、カーバ神殿そのものを破壊されなかったのは、非常に示唆的です。
 神社の面白いところの一つは、御神体に当たるものが何もなく、中心に空虚が陣取っていたりするところですが、有り難い石とか狛犬とかは、破壊しなければなりません。
 その上で、神社をそのままモスクにするのです。中心に何もないなら結構。実にイスラーム的ではないですか。モスクの建築様式は色々ですし、金銀で豪奢に飾ってはならない、という規程はありますが、木造じゃダメとかいうこともないでしょう。というか、建造物としての神社そのものより、人が集められる空間があれば十分活用できます。
 日本人ムスリムは、「宗教法人」モスク建設に奔走するより、神社を占拠し、これを文化の手から解放し、真の信仰の元に奪還すべきです。
 と、言いたいところですが、これは丁度バーミヤン大仏爆破と同じくらい、戦略的にクルクルパーな手なので、やめておいた方がいいでしょう。まぁ真似する人はいないと思いますが・・。
 根本はコレで大体あってるんじゃないかと思うんですけれどね。あってないかもしれませんね。

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