信仰熱心な人といる時の居心地の悪さ

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 信仰熱心な人といると、奇妙な居心地の悪さを感じることがあります。何か馬鹿にされているような気がするのです。
 お断りしておきますが、彼ら本人が本当に「馬鹿にしている」可能性はほぼゼロです。要するにこちらの気持ちの問題だけです。
 また、ここで「信仰熱心な人」と言っているのは、必ずしもカルト的熱狂的信者、ということではなく、エジプトなどでは普通にゴロゴロいるくらいの人です。「それは信仰熱心ではないのではないか」とツッコまれるとしたら、なかなか鋭いところを突いていて、もしかすると信仰熱心ということとは別の問題かもしれません。でも、わたしにはそう感じられることが多いので、とりあえずこう表記しておきます。
 この奇妙な「馬鹿にされ感」の理由を考えると、彼らが信仰という一つの基準しか持っていない、あるいはその基準を過剰に評価している、ということに思い当たりました。
 念のためですが、信仰熱心であることが悪いなどと言うつもりはありません。悪いわけがありません。また、信仰こそが第一の基準であり、かつ、個人の生を通じて他のすべてに関与していく可能性がある、ということも、否定するつもりはありません。わたし自身も基本的にそう考えています。
 わたしが居心地の悪さを感じるある種の人々(エジプトではむしろ多数派かもしれない)は、単にそれを第一の基準にするだけではなく、他の基準を過剰に貶め、軽視しているのです。
 信仰という基準のランキングでみるなら、例えば単純な知識や経験で、わたしは所詮ボーンムスリムには及びませんし、なんとも謂れのない劣等感を抱くことになります。自分より優っている人に学ぶのは当たり前ですが、他に何の基準もないとしたら、要するにわたしは単なる「劣等性」「新参者」という以外のいかなる価値も持ち得ないわけで、その結果「馬鹿にされた感」が芽生えるのではないか、と考えられます。
 わたしが面白いと思う人は、信仰熱心であったとしても、他の基準を色々持っていて、信仰を一旦「括弧に入れる」ことを知っている人です。だからといって、他の基準を信仰に優先させる、というわけではありません。多くの場合、信仰こそ第一の基準だと考えているのですが、日常の場面ではそれを前面には出さない。何でもかんでも信仰の文脈にひきつけて解釈したりしない、ということです。
 やろうと思えば、何でもかんでも信仰ごしに解釈する、ということは可能でしょうし、もしかするとそれこそが「真の信仰」かもしれません。しかし日常すべからくこの調子ですと、著しく非合理的な言動が頻発することになり、なにより鬱陶しい。というか、はっきり言えば、この手の「信仰熱心な人」は、つまんないのです。
 「つまんない」と正面切って言えないのは、信仰に関してはなかなか立派なもので、なおかつわたしもこの基準をそれなりに重視しているからです。でも、ぶっちゃけてしまえば「他にないのかよっ」とツッコミたくなるのが正直なところです。
 繰り返しますが、これらの人々に間違いなく悪意はありませんし、信仰を「括弧に入れる」などという発想自体、信仰の基準からすれば不信仰への第一歩なのかもしれません。ですから、信仰という基準において、この人達を批判するつもりはサラサラないですし、少なくともわたしよりは数段マシなのではないかと思います。
 また、信仰を単純に「数ある基準の一つ」とすることは、信仰を文化へと堕することであり、まったく認め難いです。信仰は文化などではない。その気になれば、いつでもそこで一極管理できるくらいの射程を備えていて当然であって、要はその刀を毎日抜身でぶら下げているか、鞘にしまっておくか、の違いです。

 とりあえず、わたしは大変不真面目な信徒ですので、他の基準も沢山併用しています。
 何よりも端的にこの人達は「つまんない」ので、つまんない人とは極力関わり合いになりたくありません。
 というわけで、最初に書いた通り、これは信仰熱心かどうかの問題ではないかもしれませんね。要するにつまんない人はつまんないので、どっか行って欲しいだけです。