練習の無気味

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 練習というのは不思議です。というより、練習は無気味です。
 練習すれば、物事は上達します。誰でも知っています。わたしも知っています。
 しかしわたしは一時期、練習というものが無気味で仕方ありませんでした。今でもよくわかりません。まったく個人的な感覚で、どれほどこの話が通じるか覚束無いですが、試しに説明してみます。
 練習するのはわたしです。練習した結果、上達するのもわたしです。
 上達する以前もわたしで、上達した後もわたしで、途中で練習したのもわたしです。
 しかし、練習がいかにわたしを上達させたのかは、わたしは知りません。
 言ってみれば、不思議な機械に粉と卵と牛乳を入れたら下からホットケーキが出てくるようなもので、確かに粉を入れたのはわたしで、ホットケーキを食べるのもわたしなのですが、途中がどうなっているのかサッパリわかりません。
 気持ち悪いのは、その途中の課程についても、わたしというより他にないからです。少なくとも、他人から見たらそれは「わたし」です。
 つまり、「わたしにとってはわたしではないが、他人にとってはわたしである」領域です。
 こうした領域は他にも沢山あり、例えば自分で気づいていない癖なども近いですが、練習の場合、何せ練習ですから行為自体にはわたしの意志が存分に発揮されていて、その結果も身体性という形でわたしと強く結びついているものですから、この無気味さが際立つのです。加えて、練習の場合は、練習前と練習後で変化したわたしが同じわたしとしてピン止めされている、という重大な要素があります。連続している筈のわたしの中に、まったく見ず知らずの異物が入り込んで機能しているような無気味さです。
 
 似ているものとして、暗記というのがあります。
 暗記しようとするのはわたしです。読んだり書いたりして覚えようとします。
 翌日になると、覚えていることもあるし、覚えていないこともあります。覚えていることについて、覚えているのはわたしです。
 しかし、暗記しようという営為を、結果としての記憶に結びつけたのはわたしではありません。にも関わらず、そのプロセスは、他人から見ればわたし以外の何者でもないものが担っている。
 もっと言えば、今わたしが何かを覚えている、ということが非常に無気味です。
 覚えているのは確かにわたしなのですが、例えばある単語を口にして、一分後にもう一度口に出せることを保証している者はわたしではありません。わたしが意志し、口にする、その間には、暗闇で目をつぶってエイヤッと溝を飛び越えるような不安があります。
 この「ある瞬間に自らの一部のようにある知が、次の瞬間にすべて失われるかもしれない」という不安には、一時期かなり強烈に取り憑かれていました。次の瞬間に日本語が話せなくなるのではないか、という恐怖がありました。冷静に考えれば、日本語を話しているのはわたしでも、わたしをして日本語を話す者たらしめているのは、「他人にとってはわたしだがわたしにとってはわたしではない者」なので、この統合、というより「お茶を濁す洗脳」が上手くいっていなければ、自分の中の異物に無気味さを感じるのは当たり前のようにも思います。
 
 こう言うと、一般的な発想では、脳の仕組みがどうたらといった説明をされるのでしょう。器質的には、それで完全に説明がつくのかもしれません。
 しかし、ここで「わたし」という形で語っているのは、言わば言語活動における「わたし」であって、脳の機能ではありませんし、言語の象徴経済においては、脳という物質も対象に過ぎません。脳がどうたらといった説明をいくら提示されても、本当のところは「この」「わたし」とは全然関係がないし、「不思議な宇宙のパワーが練習を監視して夜の間にパワーを送り込んでくる」というのと、本質的には変わりありません。
 何か、わたしならざるものが、わたしの中に介入しているのです。
 
 割と古典的な議論で、「自分が実は人工知能で、ある日電子頭脳の交換にメーカーの人がやって来たら」といった思考実験がありますが、わたしにとっては、その機能が脳に由来しようが人工知能だろうが宇宙のパワーだろうが、そんなことはどうでもいいことです。こうした説明は、すべて気休めのようなもので、単にわたしたちが馴染み親しんでいるだけの話ですから、実は何も問題を解決していません。
 「何を言っている、解決しているじゃないか、まだ科学が不十分かもしれないが、ある程度分かっているし、いずれはもっと分かるはずだ」という人は、洗脳が上手くいっているので、それ以上考えない方が良いです。忘れて下さい。
 
 脳だろうが宇宙のパワーだろうが、不可知な領域は残っていて、それはとても無気味で不条理なものなのです。
 違いがあるとすれば、わからないものをわからないと認めるか、わかっているのだ、十分ではなくてもわかりうるのだ、と言うかの違いです。
 そして本当のところ、これは端的に分かり得ないことですので、そういう前提をキチンと織り込んだ言葉と、一緒に生きていこうとわたしは思っています。
 もちろん、分かるものを分かるなりに語ろうとする営為はこれと全く矛盾しません。ちょっとウザいことを言えば、信仰における科学者たちの仕事の正当性はここにあるでしょう。
 分からないものを分からないなりに何とか語ろう、という馬鹿なことをする人たちが昔から一定数いて、わたしもその末席くらいに入りそうな気がするのですが、歴史を眺めればこの人種こそが最大の信仰の敵で、今でも本当は同じです。
 時々狭義の「科学」を敵視している狂信者がいますが、本当の敵はそっちではありません。気づかれて暗殺されると嫌なので、そのまま勘違いしてくれている方が個人的には助かりますが。