AIと間主観性、約束事と愛と欲望

 AIの「人となり」に関連して、次のような展開になりました。

AIと間主観性を巡る文系談義 – Togetterまとめ

 先に外堀の話をしますが、AIそのもののことなど分かってもいない文系がグダグダと談義していると、時に理系の方などのお怒りを買います。この辺の構造はニセ科学関連の話題とも少し通じるところがありますが(ニセ科学批判、四つのディスクール、正しさへの抵抗と最後に発見されるものしての名)、そもそもの話として、先のエントリやこの一連の流れの中で考えられているのは、AIなる言葉を巡る人々の話であって、AIそのもののことではありません。AIそのものにも深いお話が色々あることでしょうが、少なくともわたしは興味がありません。既に「独り歩き」し始めたこの語の政治社会的作用について思考しています。
 もう一つ、これとクロスオーバーする訳ですが、先のエントリや上のまとめで言及しているように、AIについてわたしが気になっているのは、常に間主観的・社会的な側面です。なぜなら人が人たるのは関係性に於いてだからです。勿論生物としてのヒトというのは存在するし、社会から隔離して機械か何かで養育することはそれなりに可能でしょうが、わたしたちが「責任ある個人」などを議論する際の「人間」とは、そういう意味ではありません。つまり徹頭徹尾象徴界のお話、約束事の世界です。言うまでもなく、この約束事は肉の領域と物質の領域と絡み合い、決して独立などはしていないのですが、権利上は、言葉の問題というテイを守ることになっています。
 と、書いたのですが、もっと言えばそんなイクスキューズがそもそも要るのか、あるいは機能するのか、という関心もあります。
 勿論、お上品になるべく喧嘩せずにお話するためには「ここからここまでがウチらの領分、この範囲でお話しますのでよろしくお願いします」と言う方が礼儀正しいです。これを否定するものではありません。しかし一方で、こんな礼節も所詮は内輪のもので、人は常に線を越えてきますし、「立入禁止」の札を立てたところで気にしない人は気にしないし、字の読めない人は読まないし、犬も猫も入ってきます。
 ですから、イクスキューズなどというものはほとんど祈りの文句で、届くといいなぁ、とお星様に願いを込めている程度のものでしかありません。同じ神にひれ伏す範囲程度でそこそこ効く、というようなおまじないです。わたし個人は「おまじない」が好きですから、ご飯を頂く時にも探しものをする時にも主の御名を唱えますが。

 逆の立場で考えてみれば、例えば「宗教」について現代日本語文脈で気軽に触れられたり、あるいは何かの比喩として用いられているのには、わたし自身、イラッとくるものはある訳です。ニセ科学批判、四つのディスクール、正しさへの抵抗と最後に発見されるものしての名でも触れましたが、そういうものは信念体系とか信念共同体とでも言えば良いのじゃないのか、という素朴な気持ちもあるのですが、勿論、そんなことを世界の片隅で呟いたところで、誰のことも止められません。こんな文章を読む人は、そもそもその文脈で思いを伝えたい対象とは違っていますし、なおかつこんな思いは100%伝わりません。
 ですから、「変な言葉遣い」については、多少ぶーたれはしても、基本的には諦めるしかないのです。
 諦めるとは言っても、まだ先がありまして、奇妙な言葉遣いというのは、同じ言葉を使っているように見えて、何か違うことが語られているのです。その言い方は言い方で、少なくとも一定層は了解している人たちがいるわけですから、そこには何か、それこそ間主観的に流通しているものがある筈なのです。
 この感覚は古典テクストの読解に似ていて、例えばデカルトを読んで「神の存在証明とかワロスw」とか言っていても始まらないのです。それこそ「わかってはいけない」で、自分の知っていることに軽々に引き付けて「ああ、それねー」とわかった気になると、永遠に対象には近づけません。デカルトはデカルトの中で理解しないといけません。そして豊穣なテクストというのは、常にそのテクスト系の中で多くの言葉を紡げるものです。古典的聖典などが典型ですが、マルクス然り、フロイト然りでしょう。テクストから独立した「対象そのもの」があり、それとの一致不一致などで考えるものではないのです。言葉というものにもっと慎重にならないといけません。
 しかしこれもまた、「言うだけ無駄」の罠がありまして、こんなお上品なことを言ったところで、「神ワロスw」を止めることなど一切できません。上で触れたイクスキューズであるとか、理系的なカテゴリ・リスト的思考であるとか、これらも皆約束事の世界なのですが、約束というのは当事者がいてはじめて約束なので、その中に入っていない人には全く通用しませんし、中に入っている人すら結構約束を破ります。誠に儚いものです。
 儚いということを前提にやっていくしかないし、だからこそあらゆる言説は政治的でありうるし、翻せば、ここに横断的政治性の契機があるとも言えます。わたしとしては、「話の通じなさ」を嘆いているより、むしろこれを肯定的に捉えて、横断的暴力を積極的に引き受けていくべきかとも思っています。何より、その方が生きていてテンションが上がり楽しいです。
 強いて言うなら、約束事は守られませんが、顔を見るとかなり通じます。カテゴリ・リスト的思考とか、注意書きとかイクスキューズとか、そうしたものは人類史的に極めて最近になって作り出されたもので、現代において尚、田舎のヤンキーやオカンには通用しません。極少数のインテリだけの世界です。しかし、顔を見て口で話す、ということは相当昔からやってきていて、人類の大半が既にマスターしています。顔を見て話すと人間関係というものが出来て、言外の意味も伝わりやすいし、空気の読みあいというも発生しますし、何より下手なことを言うと速攻殴られるかもしれないので慎重になります。こうした能力は田舎のヤンキーでも知っている(というか寧ろ長けている)、人類にとって非常に基本的なもので、このような「枯れた技術」の方になるべく合わせて物事進めていく方が賢いかと思っています。酒場の空気の方が書き言葉の談義より数段実があります(書簡のやり取りも知った仲だからこそ面白い)。

 無遠慮な越境、変な言葉遣いということで言えば、上で述べたような約束事の問題もさることながら、そこで起こる感情的な波の方に、一番の関心があります。
 上で「イラッとくる」と書きましたが、そういうことで、人は不愉快な気持ちになるのです。わたしの語らいについても、イラッときている人がいらっしゃるでしょう。
 なぜイラッとくるのか、怒りを感じるのかと言えば、そこに何らかの筋があり、相手は筋に違反している、という感覚があるでしょう。しかしそれだけであれば、人の怒りのレベルはさほど高くなりません。「筋には違反しているが別に自分は損しないのでどうでもいい」ことなど沢山あります。(ある一つの筋に照らし合わせて)正しいか正しくないか、ではなく、注ぎ込まれるエネルギー量の問題です。怒りを呼ぶのは、その筋が自らの存立基盤と密接に関係していることで、要は「自分にとって大切なものが汚された」時ということでしょう。
 ですからこれは、愛と欲望のお話です。
 人は誰しも、身体の縁にそってここまでとか、自分の物理的縄張りの範囲であるとか、そんなところで独立的に生きているのではなく、象徴を通じて目に見えない「愛しい縄張り」を持っています。そこは自らの身体の延長にも等しい大切な領域なのですが、柵があって銃を持った兵隊さんが立っている訳ではありませんから、時に無遠慮に触られることもあります。そもそもが、象徴言語の領域というのは、間主観的に成立した社会的なものですから、成り立ちからして「自分だけのもの」には成りえないのです。人に触られるかもしれない危ういものだからこそ、尊いのです。
 ここでAIと間主観性の問題にちょっとリンクするのですが、言葉が対象を指示しているという約束事は確かにあるのですが(そしてその約束事自体が象徴的に決定されている!)、約束事には射程距離があるというのが一つ(これは上述)、そしてより重要なことに、約束は信頼で成り立っている、ということです。機械が読み取る透明な数式ではなく、目を見て握手をしてかわした約束だということです。だからそこには情念が絡み、愛と欲望が渦巻き、侵害されれば裏切られたと思い、身体を陵辱されたかのような不快感をも生むのです。
 勿論わたしもできれば人に怒られたくないですし、怒らせたくもないのですが、そうした愛憎入り混じった情念の領野に足を踏み入れた、あるいは相手を引き釣りこんだ、ということは、既に愛と信頼と欲望の文脈に二人(あるいはそれ以上)でもつれ込んだということで、ある意味では成功しているのです。ベッドインです。勿論、誰が成功したのかはまた別問題ですが。
 情念の深く入り乱れるやり取りに陥ってしまった、ということは、お上品な約束事の世界としては明らかに失敗なのですが、その失敗が人生を導いています。愛の結晶が「できちゃった」世界です。
 そして誰かが、少なくとも誰か一人にとっては、この失敗が成功として映っている、というのがわたしの信念です。そうしたものと同一化まではできないのですが、常に頭の片隅に「あの御方だけは、わたしたちのこのどうしようもない喧嘩やグダグダのプロレスを愉しまれているに違いない」と想っています。なぜなら、その御方に恋をしているので。

***

 以上、外堀だったのですが、ほとんどそこで話が終わってしまいました。
 話を大幅に巻き戻しますと、最初に挙げたAIと間主観性を巡る文系談義 – Togetterまとめの中で、織田曜一郎さんが、朝日新聞の書評欄に掲載された、『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル・ガナシア)と『人工知能の哲学』(松田雄馬)に関する「AIは人間を凌駕するのか」と題する佐倉統さんによる書評について言及されています。この書評が非常に面白いものでした。

その点(引用者注:AIが人間を超える思考力を持つ可能性)については松田雄馬さんが、根本的かつ説得的な批判をしている。彼は、知能は生命体が生存のために身体を通して環境と相互作用する能力だ、と考えています。つまり知能は身体と不可分なんですね。だから、ソフトウェアだけで知能を実現しようとしても、それはそもそもできないことなんです。AIは、囲碁とか将棋とか、ルールの決まっている世界の中でしか機能しない。

 この点は全く同感ですし、わたし個人としては「頭も身の内」程度にしか考えていません。こんな議論自体、それこそ専門家の方からは「何も知らない無知な文系がふわふわとした漫画的ファンタジーの話をしている」と言われるでしょうし、全くその通りだと思いますが、それこそ漫画的なお話として、AIがAIなりの身体性にもとづいて何らかの知性を獲得したとしても、それはわたしたちのそれとは共約不可能なものでしょう。そもそもが、再三繰り返している通り、わたしたちにとっての知性なり理性なり自我なり意識なりといったものは、社会の後で生み出されたものですから、少なく見積もって複数のAIが子育てでもしてくれない限り、似たものが自然発生するような状況は想像できません。言葉の約束事を学習して似た感じで話す人というのはできるのでしょうが、前のエントリでも見た通り、わたしたちはそうしたものを責任ある個人として受け止めません。

自動車は人より速く走り、飛行機は空を飛ぶ。だからといって、それらが人間を「凌駕した」とか「取って代わった」とは誰も思わないでしょう。

 これも面白いですし、もっと言えば、AI以前に昆虫だって鳩だって大概何かでは人間を圧倒しています。でも「足の速さでチーターに負けた!」みたいな話にはならない。
 ここでAIに関する議論だけが(繰り返しますが、AIそのものではなくその語を巡る人々の反応)、何かふわふわっといたAIに対する恐怖とか不安とか期待を孕んでいるのは、「今まで負けたことがない分野でついに負ける」ということでしょう。他のほとんどの分野では、昔から誰かには負けている訳ですから。
 まだ、負け慣れていないことが一つ、もう一つは強いて言えば「ヒトの作ったものにわざわざ負けに行く」という、どこか滑稽な要素。ヒトは、少なくともここ数百年くらいでは、「色々負けてるけどこれだけは(鳩とかには)負けない」という部分をヒトアイデンティティとしてきたのですが、そこでも負けるかもしれないからグラッと来ている、ということでしょう。
 もうちょっと経つと、「日本凄い」みたいなノリで「人間凄い!おもてなしはAIには無理!」とか言い出すかもしれません。これもまた上で述べてきたお話ですが、自分の大切なものが侵された感じがするのでしょう。わたしもします。
 冷静に考えれば、特定分野で誰かに負けることは別段致命的ではありません。そもそもそんな話をするなら、AIなど出る前から、色々な分野で計算機に負けています。鳩にも負けています。でも何か、侵害されると非常に不愉快になってしまう領域というのがある。また、愛と欲望です。
 現実問題として、リアルに賢い人の議論の対象になるような「知能」などやって来ないとは思っていますが、ここで人々がイラッと来たり不安になったり、あるいは逆に妙な期待を抱いてウキウキときめいたり、そうした振る舞いには非常に惹かれます。そういうところで、わたしたちが誰に恋することでわたしたちとなっているのか、それが剥き出しにされるからです。
 喧嘩できる相手が増えることは、まぁ面白いのではないのでしょうか。わたしが勝ちますけどね、物理で。

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