正義の閾

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 正義しか頼るものがない状況というのは、本当はかなりピンチです。
 なぜなら、正義というのは、それ自体がビューンと飛んでいって敵を倒してくれるものではなく、正義にもとづいて共同体の中で賛同者を集めて、その数の力をもってして論敵に抗しようというものだからです。あるいは、もっと極端な場合になれば、明文化された法に訴えかけて、暴力装置を起動します。当たり前ですが、ここで依拠している人定法というのは、天地の始まりから紙に書いてあったわけではありません。その根拠が、天の法にあるのか、「自然法」にあるのか、は語り甲斐のあるところでしょうが、少なくとも人が意識的に一から書き上げたものではありません。
 明文化された法の周りにぼんやりとした正義というものがあって、あらゆる共同体で人々はこの雲の界隈で生きています。正義の内実は共同体によって少しずつ違いますし、なおかつその差異はアナログなものですが、ともあれ、正義にコミットしておくとその共同体での「信用」が買えます。信用は、この世で大人買いができない数少ないものの一つで、一見するとお金で買っているようなものでも、実は信用で買っているというところがあります。そもそも、お金を成り立たせているのは信用ですから、きらびやかなお金、あるいは邪神、対象aの陰で、原油として地下を流れているのは信用という力動です。
 さて、正義というのは、上で述べたように共同体によって違うもので、この共同体による正義の差異のようなものが、世の中ではよく取り沙汰されます。価値観の共有だの、異文化との衝突だのといったお話です。しかしこうした問題は割合に表層的なもので、本当にクリティカルなのは、正義の濃度というか、そもそも正義という、この礎の危ういものに対するコミットの程度のようなものです。
 正義というのは、一定の信用を得て、正義の雲の真ん中の方で暮らしている人たちにとっては有効です。この人達は、正義に則って行動しておけば、その分、いざとなれば正義を鈍器として活用することができるからです。
 しかし雲の周縁の方に行くと、そもそも信用されていない人たちがいます。この人達がなぜ信用されていないのか、理由は色々でしょう。家が貧乏だとか特定の部落の出身だとか、単に前科一犯だとか、情緒不安定ですぐキレるとか、太っているからセリフコントロールできない人だと思われているとか、なんでも結構です。この人達は、肝心の信用が薄いわけですから、正義にいくらコミットしたところで、自分が正義を活用できる番というのが回ってくるものか怪しいです。正義というのは、言うなれば自分よりもどう考えても力のある、お相撲さんのような人を口先三寸でやり込めるものですから、ただ守るだけではむしろ損なものです。ただ忠実であるだけでは、弱点になるのが正義です。ですから、弱みを握られるだけで一向に得する気配がないならば、正義なんか守らない方が合理的なのです。
 要するに「品性下劣な差別的言動をしましたが、それがどうかしたの?」と言ってしまえば、身も蓋もなくなる、ということです。それを更に「開き直り」だの何だの非難したところで、無意味です。そんなことは織り込み済みで開き直っている、開き直った方が得でそうしているのですから、キャンキャン周りで吠えている人間の方が、よほど非合理で間抜けなのです。
 その自分の間抜けっぷりがまるで分からず、相も変わらず正しさの為に吠えている人たちというのがいますが、そういう人たちは雲の真ん中の安全なところにどっぷり浸かって、世の道理というものが見えなくなっているのでしょう。サッカーの試合だから手でボールを持って運んだら反則だろう、と怒っているのですが、もうとっくに戦場はラグビーに移行しているのです。
 どんな共同体でも、雲の真ん中付近にいる人と周縁にいる人がいます。そうした違いがゼロになるということは、まあ少なくとも今後三千年くらいはないでしょう。どこの町にも、文字通りのアウトローはいます。彼らにとって、それは合理的な行動なのですから。
 しかしあまりに多くの人たちがローからアウトした方が得、という状況になってくると、これはもう、正義もヘッタクレもありません。一定の閾を越えると、あとは雪崩のようにヘッタクレもない方に流れます。そうならないためにどうするかというと、壁を築きます。壁で雪崩を止めようとするのです。ゲーテッドシティでもいいし、メキシコとの国境に作る壁でもいいです。
 そうなる前に、もうちょっと良い方法もあります。それは信用を貸すということです。
 開き直っている人たちというのは、信用がないのでやけっぱちになるのです。そういう人たちに、信用を一旦貸す。それで、正義の方に乗っておいた方が得、という状況を、ちょっと頑張って作ってあげるわけです。こうすれば雲は求心力を持って、元の秩序を回復します。そもそも、信用というのは、最初は一方的に貸与されるものです。赤ちゃんには信用もクソもないわけですから、信用は天から降ってくるのです。天から降ったものを地上の人々が奪い合っているわけですが、一所にうず高く積み上げておいてもどうしようもないわけで、これを薄くなった人たちにちょっと貸してやる。セイフティネットというわけです。このネットは別段、落ちてくる人を捕まえてあげるだけのものではなく、雲の求心力を保つために必要なものなのです。
 そういう道理というのは、所詮信用は天から降ったもの、という、当たり前のことがわかって初めて通るものです。雲の真ん中のお城の中で暮らしていると、正義の下を流れているドロドロとしたものが見えなくなります。それは天の道理を見失うというもので、やがては正義の流通する共同体の領域を狭めていくことになるのです。
 世の人が総て乞食になっても困るのですが、乞食が奪う道理が見失われれば、やがて乞食以外も生きられなくなるでしょう。



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