正義と弱さ、ベタと喜び

 ある意味、正義は弱さの証しでもあります。
 何らかの形で相対的に強い者、金や権力、暴力などにおいて相手や周囲を凌駕していて配慮の必要のない者は、別段正義に訴える必要はないからです。正義は貸与された信用をテコに、共同体内での数の力を集める鈍器に他なりません。
 というと、実に身も蓋もないことを言っているだけのようですが、一見全然関係ないところに話を飛ばしますと、世界というのはボケています。ボケというのはツッコミを待っているわけですが、そうした解釈格子の入る以前の世界というのは、理というものが未だ発見されていない状態ということで、すなわちボケです。ただあるがままにあり、そこにおかしみが発見されて笑いが起こることもあり、また何者かがツッコミにより解釈を入れることでおかしみに転化することもあります。
 世の中には理不尽なことが沢山ありますが、そうした理不尽というのも、いわばあるがままの世界のボケというもので、理不尽はイヤだからなるべくツッコミを入れておかしみに転化したり、その解釈を元に改善して筋の通った世界にしようと、人々は考えます。
 理不尽に対して人は怒りますが、この怒りというものも正義とつながっていて、極論すれば、あらゆる怒りは何らかの正義に裏打ちされています。この正義というのは、世の人々に示して満場一致の賛成を得られるというものではなく、要は「その人にとっての何らかの正しさ」です。その「正しさ」は、正義として共同体内での賛同を得られるものもあるでしょうが、多くは自分勝手なもので、「俺にとっての都合の良さ」でしかありません。場合によっては、本人にとっても、少し時間が経つと「あれはわがままだった」となるようなものです。それでも怒りが発生した瞬間は「なんでわたしがこんな目に」という、何らかの「正しさ」の空気があります。
 ここで発生する「正しさ」の空気というのは、正義の衣をまとってはいるのですが、つきつめてしまえば、自分にとってスマートに物事が進む、ということに他なりません。単に仕事で楽ができるといったことだけではなく、脳みそが楽をすることも含めて、すっきりまとまる、記述が短くなる、ということです。筋というのは、例えば物事を抽象化し法則を見つけ出すことで得られるもので、1+2=3なら1+3=4になるのが筋、山田さんが赤信号で止まれなら、鈴木さんも赤信号で止まるというのが筋です。それは、1とか2とか山田とか鈴木とかいった具象を一旦捨象して、法則だけを抽出するから筋なのです。それはつまり、無数の具象に費やすだけの脳みそのメモリを節約できるということで、楽をするということです。山田とか鈴木とか一々全部覚えておかなくても、赤信号なら止まれでオッケーということです。怒りは正義とつながっていて、正義は楽とつながっています。
 そして理不尽なる世界に対する怒りというのは、あるがままに秩序もヘッタクレもない世の中に対し、なるべく脳みそが楽をしたい、筋の通った世の中にしたい、という、言うなれば楽をしたい一心からおこる義憤ということです。
 もちろん、この義憤が偽者などと言いたいわけではなく、正にその「楽をしたい精神=義憤」によって、世の中色々良くなってきたわけですから、大いにやって頂いてよろしいかと思います。
 しかし人間の力というのは有限で、大自然を前にしたらちっぽけなアリンコのようなものですから、世界の圧倒的なボケに対して、ツッコミを入れきる、楽をしたい一心の正義を貫く、というのは、非常に難しいわけです。頑張るだけ頑張るけれど、大体のことは諦めるより仕方がない。
 正義が弱さの証しというのは、大自然に対して楽をしたい、筋を通したい、合理的にやりたい、というツッコミ=正義を入れようとするけれど、それも最後にはかなわない、という意味でもありますし、そもそも大自然に対して圧倒的に弱いからこそ正義にすがる、とも言えます。
 正義は弱さの証しであり、弱いヤツほど正義に頼るのですが、人は皆弱いので、やはりどこかで正義にすがらざるを得ない。その正義すら最後には踏み潰されるのですが、それでもやっぱり、イタチの最後っ屁程度の正義は語らないでいられない。
 頑張ることも、諦めることも、人間の重要な一面であって、両方あって人は人です。
 本当のところ、ほとんど大体全部、最終的には諦めるしかないのですが、世の中の流れとしては、ここ二百年くらいは割と頑張る方向で伸びてきて、ここ二十年か三十年くらい、ちょっとガタがきた感じ、といったところでしょうか。人の一生で言えば、若い頃は頑張るツッコミの方で来るわけですが、歳をとると段々「世の中こんなもん」というのが見えてきて、ボケてもいいんだ、となったりすることがよくあります。
 大自然はそれ自体ボケていますので、ボケというのはベタということでもあります。お正月にはお餅を食べるとか、ベタですね。だからなんやねん、という。なんで餅やねん、という。ですから、若い頃はアホらしいと思う人も沢山いますし、わたしも思いましたが、歳をとると段々どうでもよくなって、ベタなことをしてみたりもします。ベタは大自然に一歩近い、つまり死に一歩近いのですが、そうやって半分死ぬことで、人生楽しくなることも沢山あります。
 人は死に切らないように頑張るし、正義を言うし、ツッコミを入れるのですが、それを通してしまうと、なぜか人生は楽しくない。ベタなことをそこそこやって、棺桶に片足突っ込んで、初めてちゃんと生きている、人生謳歌できる、というところがあります。
 多分、若い頃は活き活きしているようで、まだ生き始めたばかりで、生きてるのか死んでるのかよくわからないのかもしれません。そうすると頑張って正義やツッコミをやるのですが、そればっかりですと非常にギスギスして疲れるのです。ベタなことをやってもすぐには死にませんから、お正月にお餅を食べたり、母の日にカーネーションを贈ったり、恋人とイルミネーションを見に行ったりしても、まぁ結構大丈夫です。まだそれくらいでは自我が消滅して天に召されたりはしません。残念ながら。
 そういうベタなことを強要する大人というのが、わたしは心の底から嫌いで、毎日毎日ぶっ殺す!と思っていましたし、今でもやたら大きく語ってくるのとか、しょっぱい伝統を大上段に振りかざす人はどうかと思いますが、静かに粛々とベタなことをやってみる、というのは、悪くありません。個人的には、そういうものを大きく構えすぎる大人たちが、子供をツッコミに走らせているのかと思います。ベタなことは、特別価値があるわけでも、偉いのでも大事なのでもありません。クソ下らないです。でもそのクソ下らないことを特に感動もなく粛々とやっていくことで、人生結構楽しくなる、というだけのことです。偉いとか大事とかいうのは、まだ「スジを通す」心、つまり合理的理由をつけようとする心が残っているのです。そんなことで子供を説き伏せる必要はありません。「ワシも理由は知らんし馬鹿馬鹿しいと思うけど、とにかく餅を食うんや、泣きながら食え」でいいと思います。子供はなにかというと理由を知りたがり、納得しがたりますが、あれも子供の弱さの裏返しかもしれません。
 わたしたちは皆弱いので、スジを求めるし正義を求めるのですが、そうしながらも同時に、死を受け入れるようにベタをやる。そうやって初めて、薄い薄い人生の喜びが生まれるようにも思います。



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