バナナの病気と金の仔牛

 いきなり俗っぽい、いかにも議論百出しそうなお話をすると、まずデフレを何とかしなければいけないと思っています。
 同じように現代日本の抱える大問題は色々あって、例えば中長期的には少子化は根本的な問題ですが、これはもう少し長い目で対応しなければいけないことです。一方、デフレは病的状態で、病気の人に頑張れと言っても始まらないように、まずは多少無理をしてでも病気を治して、話はそれからです。
 この状況で財政健全化などと言うのは、病人に運動しろと言うようなもので、運動は結構だけれどまずは病気を治してからだろう、というお話です。欧州の真ん中あたりの帝国からは、そういう綺麗ごとを要求する声もあるのでしょうが、その口八丁手八丁でギリシャ人民を蹂躙し、統一通貨なる虚妄をもって欧州内の相対的低開発国を植民地化してきたわけですから、そんな口上に騙されてはいけません。
 今時の若者が欲望を持たないとか、ひきこもりだとか、そんな薄っぺらい社会現象についてとやかく言われることがありますが、そうした現象もこの「こじらせて慢性化してしまった病的状態」へのある種の適応であり、そうした人たちに根性気合だけ言っても、これまた病人に運動させるのと一緒の話です。ある意味、彼らは正しくこの世界に対応しているわけですから。人びとはマクロに見ればおおよそ経済合理的に行動して、その結果欲望を持たず極力貯蓄に回しているだけのことです。
 この病気を治すために、金融緩和はもちろんですが、同時に財政出動が必要でしょう。この状況で唯一経済合理的ではない行動をとれるのは政府だけなのですから。むしろちょっと生産性に問題のある、必ずしも合理的とはいえない公共事業でも打たなければならないはずです。
 大きな政府、累進課税の強化、できれば資産課税、そして保護主義と内需主導といったピケティが言いそうなことを実行しなければ十分な需要は作り出せず、社会の不安定化を招くだけでしょう。
 一方、こうした低成長状況が既に恒常化している、(日本のデフレが病的であるにせよ)もう先進諸国の資本主義は飽和状態に達している、という声もありますから、そうなるとこうした体制を国際的な協調で作り出していく必要がある、と考えています。もちろん、足並みそろえてこんな体制へと移行するのはほとんど夢物語ですが、理想としてはそちらの方向だと思っています。
 別に貧乏人が可哀想だからお金持ちをぶっ殺して理想郷を作りましょう、という話ではなく、単にそれ以外に需要を作り出し維持するすべがないだろう、そうしなければ「お金持ち」も困るだろう、ということです。ヘタをすると、このまま中産階級まで破壊され格差がより増大して、暴力革命に至る可能性だってないわけではないですが、どっちに転んでもお金持ちも貧乏人も楽しくなりません。
 と、柄にもない話をしていますが、本当に言いたいのは門外漢の経済の話などではなく、例によってもっと漠然とした心許ない心のお話です。
 国の借金などというのは、日本の場合で言えば自国通貨による国債なのですから、極端な話、いざとなれば円をバンバン刷って返すことだってできるのです。国の財政と家計は全然性質が違うのですから、国の借金などというフレーズで国民の不安を煽る言説はどうかしていると思うのですが、それはともかく、もちろん本当にバンバンお札を刷るようなことをすればインフレになります。本当のところ、恐れられているものの正体というのはインフレなのでしょう。
 この恐怖、この不安は、冷静に考えてみればちょっと馬鹿馬鹿しいわけですが(このデフレ下でもっと先に心配すべきものは沢山ある!)、しかし一方、人びとの心の奥底に深く根ざした厄介なものです。もちろん、フローを失ってストックで暮らしている高齢者、特に資産家がインフレを恐れるのは尤もなことなのですが、そうした人びとでなかったとしても、ほとんど無意識的な不安が人びとの間に根ざしているように感じます。
 それは、お金というものの価値が崩れ去る不安です。
 当たり前じゃないか、と言われるでしょうが、ことの本質は、自分の持っているもの(お金)の価値がなくなる、ということではなく、他に確かなものが何もない、ということです。
 非常にベタなお話をすれば、昔は地縁血縁のネットワークであるとか社会関係資本的なものがもう少し強くて、お金がなくなってもこうしたものがある程度セイフティネットとして機能していたわけです。年寄りは子供に面倒を見てもらったわけですから、子供もそうした資本であって、愛とか何とかキレイ事の前に労働力や老後の保険として子供は機能していたのです。余談ですが、少子化対策にしたところで、絆とか愛とか言っても始まらないわけで、ゼニカネと一種としての子供というものがもともとあって、そうした機能が失われた以上、例えば大胆な扶養控除とか学費の国庫負担であるとか、これもゼニカネ的なメリットを与えなければ経済合理的なる人民が子作りに励んだりしないのは当たり前のお話です。
 そうした多層構造が単純になり、地平線までバナナ畑が続くモノカルチャーのような風景になれば、バナナならぬお金以外に頼るものはないわけですから、その唯一の超越的価値が危険にさらされるとなれば、不安になるのも当然のことです。
 もっと言えば、そうした実利にとどまらない、超越的な価値の喪失というものがあります。
 これも非常にベタなお話のようですが、お金というのは神様になっているのです。
 別に拝金主義批判といったことではなく、わたしたちは常に、なんらかの理想、なんらかの「不滅なるもの」を緩く共有して共同体を作り出しているわけで、今わたしたちをつなぎとめている「絆」がお金ということです。
 わたしたちは自分たちの身体・生命が有限のものであることを「知って」いますし、また形あるものには終わりがあることも「知って」います。しかしそれはイマジネールな世界のお話で、同時にわたしたちは語らいの世界にいて、言葉の中にも住んでいます。そして言葉というのは不滅なもので、無意識に時間はありません。ですから、形があり終わりのあるものも、ある一面では「終わりがないはず」のもので、そうした齟齬を常に抱えながら生きているのです。
 これを仲裁するために、不滅のもの、不滅の例外者というものがあるのです。
 この例外者がいるお陰で、わたしたちは肉の有限性というものを受け入れ、同時に不滅の言葉の中で生きていくことができるのです。
 正確に言えば、この不滅のものは、いわゆる一神教のように絶対の例外者が一つ立てられるという場合だけでなく、もうちょっとぼんやりと「ご先祖様、家」とか「山野」のようなものだったりもします。スケールの小さいものなら、自分が衰えても変わらず存在し、自分の死後も残るであろう共同体であるとか、そうしたヴァリアントがあります。ただ、こうしたエッジの緩い「不滅のもの」は個別的・具象的なものに深く結びついていて、一定以上のスケールには成長することが難しいです。そこで極めて抽象度の高いものとして、一神教的な例外者というものが(グローバルに!)機能するのです。
 もちろん、こうした抽象度の高い例外者が支配している世界だとしても、それぞれの村落にもうちょっとスケールの小さい素朴で具象的な「不滅のもの」が残っていることはよくあります。厳密な一神教的解釈からすれば、こうしたものは猥雑物であって、「原理主義的」に排除される場合もあるわけですが、そうは言っても世の中のほとんどの人はボンクラですから、あっちの村にもこっちの村にもよくわからない有象無象が残っていて、時々一神教的なものとのハイブリッドが生まれたりして、猥雑な世界ができています。
 そして当然、貨幣というものもあります。その貨幣は現代先進諸国の共有している透明で信頼度の高い貨幣ほど完成されていませんが、村のお地蔵さん程度には不滅のもので、これら様々な階層の不滅性が併存しているわけです。これらと一緒にいる間は、貨幣は貨幣なりに力を持っていても、オルタナティヴがある状態です。
 でも石ころもご先祖様も不滅の例外者も排除されて貨幣しか残らないとしたら、これはもう、彼方まで続くバナナ畑でしかないのです。
 バナナがなくなれば一巻の終わりです。
 奇しくもそのバナナが病気で一網打尽にされていて危機が叫ばれていますが、同じように資本主義も危機に瀕しているわけです。そのバナナの病気が「新パナマ病」というのも、さきごろの租税回避暴露文書と可笑しいくらいのシンクロニシティを演じてくれています。
 大分遠回りしましたが、お金持ちのみならず貧乏人すらも縛り付けている不安というのは、このバナナが病気になって滅んでしまうのではないか、というものなのです。バナナ以外にないのですから、人柱の一つや二つ立てても守ろうとしてしまうのは致し方のないことです。わたしだって不安です。
 ついでに言えば、このバナナを煮詰めたようなものが統一通貨というファンタジーです。わたしたちは神様の世界が退潮したとしても、やはり何か不滅なものが必要ですし、理想を共有したいのです。マーストリヒト体制といのは、冷静に考えれば色々と無理のある話の筈なのですが、それでも金の仔牛を立てずにはいられなかったのでしょう。それは欧州の力が相対的に減退していく不安と無縁ではないはずです。
 もっと言えば、グローバリズムそのものが金の仔牛を解き放ち、世界中を駆け巡らせようという大人のメリーゴーランドでしょう。そこで仔牛は自由に世界中を移動しますが、人の移動は遥かに不自由で、農地も外国に逃げ出すことはできません。それで本当に得をしている人間は一握りで、その一握りにとってすら長期的に何ら安寧の約束されるものでもないのに、わたしたちは(たとえ自分は地に縛り付けられても!)仔牛だけは世界を駆け巡る夢を見ていたいのです。
 こうした状況を緩和していこうとしたら、上のような経済政策のお話だけでなく、バナナのモノカルチャーをなんとかする、バナナもあるけどタロイモもある畑にしていく、畑のスケールを小さくしていく、ということが望ましいわけですが、そうは言っても一旦破壊されてしまった不滅の(ような)有象無象のものたちは一度放棄された農地のように簡単には蘇りませんし、例外者の威光に対する抵抗が強いこともわかりますし、またその歴史的弊害も否定することはできないでしょう。そうは言っても「他の神様」というのはバカにならないもので、昔から人びとは神様を立てて戦い続けてきて、中国共産党が法輪功をあれほど警戒するのも故無きことではありません。
 あまりこういうことは言いたくないのですが、本当のところ、金の仔牛のために死ぬ人間がいくらでもいるように、神様のために死ぬのも戦うのも別段珍しい話でもなんでもないですし、むしろ神様というのはそういうものです。「宗教は愛と平和のためのもの」などというのは、「文化」のカテゴリーにていよく収まって去勢された信仰の話で、生きるも死ぬも、殺すも殺されるも全部込みだから宗教なのです。「戦争はうちの管轄外なので」などというのはお笑い種であって、人がずっと戦って殺し続けてきた以上、それもまた人の生の欠くべからざる一部であって、領域国民国家が人を殺すように、信仰もまた時には人を殺すでしょうし、何もなくても人は人を殺すでしょう(とはいっても、「そんなこと知りません」とカマトトぶるのがこの世界での「戦い方」というのも一理あるし、そもそもこんな話をしても楽しくありませんから、わたしもまた極力そんなところには目を向けたくはないのですが)。
 それはともかく、このバナナ一色の脆弱な土地が不安を生んでいるということなら、少しずつでもバナナを相対化していくしかありません。それが不安を和らげ、貨幣を本来の位置に戻し、低成長が常態化した世界を生きやすいものに変えていくのではないかと感がています。
 例によってロクな結論もなく、わたしたちにできることなどほとんどないのですが、せいぜいバナナ畑に訳の分からない芋でもこっそり植えて、それがこの脆弱な土地を乱し、結果として強くすることを、密かに祈っているのです。

不滅のものは増殖してはならない
エンデの遺言、シルビオ・ゲゼル、イサカアワー、イスラーム金融

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