なりすましウィルスが忍び込みわたしたちは自白する

 なりすましウィルスの件が話題になっています。
 この事件そのものついては、特に申し上げられることもありません。警察の捜査手法の問題などは、既に多いに議論されていますし、そうしたことに詳しい方が良い記事を書いて下さっているでしょう。ただ素朴に恐怖と憤りを感じるだけです。
 ここで書きたいのは、当該事件とは直接的には何の関係もない、ただなりすましウィルス事件から勝手にインスパイアされたお話です。とりわけ、誤認逮捕された方のうち二名が、一時的にでも犯行を認め、自白していたことについてです。このうち大学生の方は、同居女性がやったのだと思い、彼女をかばおうと自白した、という話を聞きました。これが本当なら、実に見上げた人物だと思います。ですが、以下で書いていることは、この大学生とも事件そのものとも、直接的には何の関係もありません。事件プロパーについて言えば「不謹慎」な内容ですので、単なる契機以上の関わりがないことをご了解下さい。

 実に恐ろしいことです。
 ある日突然、男たちがやって来るのです。
 彼らは大抵、まだ眠りから醒めやらぬ早朝に押しかけてくると言います。逃亡の恐れが少ないからでしょう。
 ドアが乱暴に叩かれ、眠い目を擦りながら開けてみると、変な紙を突きつけられ、車に押し込められ、暗い部屋へと連行されるのです。
 しかも、やった覚えのないことを「お前がやった」と決めつけられ、「証拠もある」と言われます。「やっていない」「知らない」と言っても、まるでとりあってもらえず、「認めた方が身のためだ」「どうせ逃げられない」といったことだけが繰り返されます。
 もう何がなんだかわかりません。
 こういう責め苦が何時間も何日も続けられると、段々頭がボーッとしてきて、本当に自分がやってんじゃないか、という気がしてきます。
 そういう気になってみると、動機も十分なような気がしてきます。

 こうしたことは、現実にも起こりえますし、それは捜査手法の問題です。
 ですが、ここで言いたいのは、警察やら何やらのお話ではなく、「男たち」は本当にやってきて、わたしはもう自白しているのではないか、ということです。

 実際、突然に「自白」してしまう人たちというのがいます。
 ある日突然、自分が何者であるかを発見し、やってもいないことを「やった」と言ってしまうのです。
 しかもこの「自白」には、凄まじい確信が伴われます。彼または彼女が実際にその手で行ったことには伴われないような、特別な確信です。
 普通そういう人を見ると、わたしたちは「発狂した」と言います。実際、発狂しています。
 しかし、ここで「自白」に転じる時の恍惚を思うと、全身の毛が逆立ちそうです。それまでジメジメと暗い部屋で「お前がやったんだろう」「証拠もあるんだ」と耳元で囁かれ続けていたものが、「そうだよ、俺がやったんだよ!」と叫んだ途端、突然光に包まれ、世界が彼を拍手で歓迎してくれるのです。
 それまで彼または彼女には、何をするにも確信がありませんでした。
 人間らしい振る舞いを見よう見まねでなぞることはできますが、それが本当に自分の「内面」から出たものなのか、本当の自分の意志なのか、確信を持つことが出来なかったのです。
 自分がやりたくてやっているようなことでも、本当にやりたいことなのか、さも「やりたそう」にそう振る舞うことが適切とされており、その形をなぞっているだけなのか、よく分からないでいたのです。
 だから常に耳元で声がします。「お前は本当は・・・」。しかし「本当」の先にあるものは、グロテスクな肉の塊のようなもので、到底是認できるものではありません。だから目を閉じ耳を塞ぎ、暗い路地を走り逃げるように、後ろ暗い気持ちで生き続けます。
 そうした責め苦が長年続いた後、突然、「自白」の朝が訪れます。
 男たちが、早朝に訪れるのです。
 覚醒とも眠りともつかないまどろみの中で、「お前がやったんだ」と断定されます。彼の持ついかなる確信よりも強い断定です。その断定を認めた瞬間、世界は光に包まれ、「刑」が下されます。今までは刑も何も宙ぶらりんのままだったのが、少なくとも懲役五年勤めれば「認められる」ことが分かるのです。

 普通の人々は、幸いなことに、ここまで華やかな「自白」はしません。
 なぜなら、もっと早い段階で、緩やかに「自白」を済ませてあるからです。刑期の分からないままコソコソと逃げ隠れするのではなく、早めに刑を引き受けてしまうのです。
 あまりに早いので、「自白」した時のことを、大抵の人は覚えていません。
 わたしも覚えていませんが、これは本当に、わたしが自白していなかったのかもしれません。というのも、わたし個人については、その後何度か「自白」することがあったからです。
 それはともかくとして、わたしたちのところには、少なくとも一度、男たちがやって来ています。
 その時わたしたちは、まだ覚醒とも眠りともつかないまどろみの中にいて、ずっとそこに居たかったのに、突然に車に押し込められ、「お前は・・・だ!」と託宣を下されます。まったく承服しかねる不条理です。実際、わたしはそんな名前ではないし、そんなことをやった覚えなど一つもないのですから。
 でも、大抵の人は、ジメジメとした部屋で長い時間苛まれるのに耐えられません。言われるがままに罪状を認め、刑を引き受けてしまうのです。
 これはまったく不当な話ですが、同時に奇妙な安心感と悦びもあります。とにかく、その刑を引き受ければ、完了できるのですから。変に否認を続けたところで、男たちは執拗に追い回し、耳元で囁き続けます。その結果、突然にめくるめく「自白」に至ってしまうより、そうそうに吐いてしまった方が楽とも言えます。

 引き受けるも何も、無実の罪ではないか、と思われるでしょう。確かにその通りです。
 しかし多くの罪は、「わたし」の明白な意図による決断の結果というより、ほとんど偶然的に振りかかるものです。車を運転していて人をはねたら犯罪ですが、はねるかはねないかは半ば偶然のようなものです。人を殺す結果になってしまった人すら、そこに至るすべての契機について、自らが確信をもって選択していたかというと、大抵はそうではないでしょう。「どうしてこんなことになってしまったんだ」というようなことの連鎖の末に、罪を負うのです。
 わたしたちすべてが「自白」を強要された罪とは、そういう偶然の連鎖の結果のようなものです。なぜわたしがその罪を、というのに、説明はありません。むしろまったく根拠のない罪だからこそ、その罪と刑罰がわたしを規定し得るのです。
 その偶然性、否応のなさというものを忘れると、人は脱獄囚のようになり、やがてより恐ろしい刑罰と「自白」に苛まれることになります。
 ここから先は安全で、意志と主体性が支配し、自らが手を染めない無実の罪などない、というラインなど、存在しないのです。
 この偶然的な世界の中で、唯一心を安らかにするものがあるとすれば、それは自らの刑とその根拠のなさを思い出し続け、シャバに出た日に備えることです。シャバには永遠に出られないのかもしれません。それは重要ではありません。今、この刑務所の中で、刑の無根拠性とその引き受けという、まったく矛盾する信念を手放さずに思い出し続けることです。

 最初に「インスパイア」と書きましたが、この「自白」は本当にin-spireするものです。ウィルスが忍び込み、わたしの代わりにわたしの名において宣言するように。

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