水を飲む場面から始まらなければならない

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 かなりベタで恥ずかしいのですが、以下のような動画がありました。CMの映像のようです。

 人を助けるなり施しを与えるということは、その人からの見返りが見込めるからではありません。全然関係ない方から突然返ってきたりするものだからです。
 関連することを以下などで書いています。

世間と神様とTPP
間があるから、行いは必ず報いられる
巡り巡ってイラク人ムスリマに祝福の届けられんことを

 と、これで終わりにすれば、なんともお行儀良く説教臭いわけですが、本当のところ、これはちょっと正確ではないでしょう。
 何が足りないかと言えば、この動画で言えば、あの作業員の男は、一番最初に水を飲むべきです。順序が逆です。
 その水はどこからやって来るのか。動画の一番最初ですから、与えたものは現れません。つまり外部です。
 この動画のような物語や、「困った時はお互い様」的な思想は、御行儀よく見えが良いですし、それはそれで悪いことではないのですが、それだけではただの社会-内的な道徳に過ぎません。弱ければ役に立たず、強ければ形骸化する、それだけのものです。なぜなら、ここでは、すべてが「人」で巡らされているからです1
 しかし、与える運動を駆動しているエンジンにあたる部分は、複数の人々、つまり動画の内部の世界にはありません。
 これを神と言われて抵抗があるなら、集合そのものとでも理解すれば良いでしょう。人の集合そのものを示すシニフィアンです。
 だから、まったく不条理にも、動画は唐突に、男が水を飲む場面から始まらなければなりません。そして実際、わたしたちの生は不条理に唐突に始まり、水を飲んでいるのです。

الَّذِينَ يُؤْمِنُونَ بِالْغَيْبِ وَيُقِيمُونَ الصَّلاةَ وَمِمَّا رَزَقْنَاهُمْ يُنفِقُونَ
主を畏れる者たちとは、幽玄界を信じ、礼拝の務めを守り、またわれが授けたものを施す者
(雌牛章3節)2

  1. もちろん、この些末な現象面だけを見て道徳的に振る舞うことも、別に悪いことではない []
  2. 「われ」はもちろんアッラーです []