『ラースと、その彼女』

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 『ラースと、その彼女』を見てきました。
 直前に見た映画が映像的に凄過ぎたせいか、画そのものは「DVDでもいいかな」という印象でしたが、感動するというより「重要な映画」だと感じました。

雪が降り積もる小さい田舎町。そこに暮らすラース(ライアン・ゴズリング)は、人一倍優しくて純粋な心を持つが、極端にシャイで女の人と話すのが苦手。町の人々は、26歳のラースにずっと彼女がいないことを心配していた。そんなある日、彼に人生で初めてのガールフレンドが出来た。だが、それは等身大の人形・ビアンカだった! しかし、兄夫婦をはじめ、街の人たちは驚きながらも彼を傷つけないように、どうにかビアンカを受け入れようとする。そして、本当に彼女を愛しているラースの様子を見るうちに、ビアンカの存在が次第にみんなの心を癒していく…。そして、ラースにもある変化が訪れる――。

 荒唐無稽なストーリーが作りこまれた脚本と好演によって圧力のある作品に育っています。
 この作品で重要なのは「何がが何かになるとはどういうことか」「既に許可されてしまっていることを許可すること」です。
 「何かが何かになる」というのは、本来意味のわからないことです。この「意味のわからなさ」の圧倒的な圧力をあまりに感じられてしまうと(ラースのように)世の中と上手くやっていくのが難しくなりますが、一方でまったく感じられないと、何をやっても虚しく実感が得られないような抑うつ感、虚無感に陥ってしまいます。
 「何かが何かになる」。分析的に一番ベタなのは「父になる」ことでしょうし、この作品を見ている間ずっとわたしの脳裏にあったのはシュレーバーのことでした。「母になる」ことには、イマジネールな根拠が与えられます。しかし父とは、純粋に象徴的な地位であって、例えば、男性であればある日突然昔の彼女が赤ん坊を連れてやって来て「あなたの子よ」と言われるかもしれないわけです。父になってもお腹が痛むわけではありませんし、知らない間に父になっているかもしれません。
 ですが「父になるとはどういうことか」という問いを立ててしまうと、余りにも伝統的精神分析の文脈にひっぱられ、かえってリアリティが得られません。『ラースと、その彼女』の中には「(兄嫁に子供が生まれて)叔父さんになるのよ」という台詞がありましたが、「叔父になる」「叔母になる」あるいは「お姉ちゃんになる」くらいの方が、ことの本質を感じやすいように思います。
 別段家族ファンタジーに拘る必要はありません。「議長になるとは何であるか」でも良いでしょう。要するに、自分が作ったわけでもない象徴的な構造の中で名を与えられてしまう、ということで、『ラースと、その彼女』にひきつければ、「大人になる」ことです。
 朝起きて食べて寝て、朝起きて食べて寝て、ある日突然「大人になる」のはヘンテコなことです。大人になると羽根が生えて飛べるようになる、のだったら(母になるように)わかりやすいですが、何一つ特異な変化というのはありません。この隙間を埋めるために、かつては元服の儀式があったり、その他の社会的位置づけにしても、一々儀式が大げさだったわけですが、そうした文明の知恵はどんどん簡略化され失われ、カジュアルになった反面、越えられない人には本当に越えるのが難しくなってしまいました。
 ラースは、自分が産まれたことが(お産で亡くなったらしい)母を死なせる原因になったと思い込み、女性に対して積極的になれません。同時に、田舎町にあって、「いい人を見つけてまとまる」プレッシャーは相当なものでしょう。「まとまる」というのは、新たな名に自らを位置づける、ということですが、ラースはその「意味のわからなさ」を越えることができません。正確に言えば、意味がわからない、という真理がキチンと見えすぎてしまって、自然に前に進むことができなくなっているのです。
 だから、迂回します。
 儀式が必要なのです。
 そのために導入されるのがビアンカという人形です。こんな精神症状はいくらなんでもできすぎですが、劇中でも仄めかされる通り、わたしたちは皆「人形で大人になる」し、また大人になっても文字通り小さな人形をしばしば支えにしています。つまり「ごっこ」をしながら名の次元に馴染もうとする、ということで、大人でもフィギュアやぬいぐるみを大事にしている人は沢山います。わたしたちは、ぬいぐるみが本当の熊でもなければ話ができるわけもないことを「知って」いますが、それでも彼らが返答できるかのようにふるまい、その中で象徴経済との関係を作り上げていくのです。
 呼びかけに応じない者へと呼びかけることのないものは、言語ではありません。
 言語は「コミュニケーションの道具」などではありません。わたしたちは、「コミュニケーション」もしますが、同時にコミュニケート不可能なものにも呼びかけます。この一見無意味な行為こそが、言語の欠くべからざる一部なのです。答えをするはずもない赤ん坊に大人たちが呼びかけなければ、決して赤ん坊が話し始めることがないように。

 だから、「何かが何かになる」を巡る葛藤は、「既に許可されてしまっていることを許可すること」の葛藤とほとんどパラレルです。ラースの兄嫁は言います。「なぜ皆がビアンカに親切にするかわかる? 皆があなたのことを好きだからよ!」。ラースほど愛されていない人でも、誰もが予め「過剰なまでに」承認されています。望まれずに産まれた子すら、神様が望まなければ存在しません。「お前は父である」という名の水準を獲得するということは、自らの預かり知らない星座の中に、不本意にも位置づけられてしまう、ということです。もう「何か」になってしまっているのです。それを認めることと、「もう許可されている」ことを受け入れることは、ほとんど一つの営みです。

 「泣かせる」場面も多いながら(わたしは残念ながら泣きはしませんでしたが)、雪の田舎町の風景、そして特に女医役の俳優さんの名演も光ります。個人的には、あの女医に一番感情移入していました。
 ちなみに原題は「LARS AND THE REAL GIRL」。”THE REAL GIRL”というところが良いです。人形という「リアルならざるもの」を通じてリアルの無さというリアリティが獲得される。ベタですが「<女>は存在しない」(The women)と響きあうようで、とても美しいタイトルです。

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