蠅と蚊と蟻とその仲間について

 わたしは普通だった。蠅や蚊や蟻を無条件に毛嫌いしていた。多くの人々と同様に。すべて、ではないかもしれないが。嫌悪そのものではない、反対だ、わたしは主が創造されたすべてを尊重し敬っているのだから。この虫は、生に拘泥しないばかりか、他のもののために命をも落とす。加えて活動的で、日々の糧や砂糖や血を、一日中飽きもせず追い求める。その目的と存在のために整序され純粋な存在で、仕事における自己犠牲は、謙虚の極みに達する。
 しかし残念ながら、蠅が入ってきてあなたにとまったら、途端に嫌われて、蚊に眠りから起こされれば、大嫌いになる。戸棚のチョコレートに蟻がたかって食べていたら、世界中のすべての虫が嫌いになるだろう。これがわたしたちが蚊や蠅や蟻と敵対する理由であり、冷酷さと断固たる悪意をもって彼らを殺す理由である。
 問題は、わたしたちが、これらの者たちが敵対していると考えて殺している、ということだ。彼らはただ生きたいだけで、わたしたちに敵対しようなどとはまったく考えていないのに。そもそも、この大地はわたしたたいだけのものなのか。彼らのものでもあるじゃないか。農地の代わりに家を建て、自然の代わりに町を作って、かれらを苦しめているではないか。
 わたしたちに、彼らを殺す権利があるのだろうか。主は、その被造物をわたしたちが殺すことで、お怒りにならないだろうか。毛皮や象牙や何かで稼ぐために無駄に動物を殺す人間たちから動物を保護しようとする運動は沢山あるのに、虫については誰一人考えないのは、どうしてなのか? 小さいから? 蚊と戦うのはマラリアのためだ、というなら、筋が通ってはいる。結構。しかし、すべての虫を迷惑な被造物で殺しても何の問題もないかのように扱うのは、間違いなく筋の通った話ではない。
 ことを悲劇にしようというのではない。虫を殺せば、分解されて再び自然に帰るのだ。しかしそれでも、悩ましい問題だ。主が創造され魂を分けられた生き物を軽んじて殺せば、何がしっくりこないものを感じるだろう。同時にまた、蠅や蚊や蟻の罠をしかけて捕まえ、一杯になる度に畑に捨てるのもうまくない。彼らは平和に暮らしていたのだから。
 家で蠅を殺した時、見ていた娘がこう尋ねた。「何してるの?」。わたしはこう答えていた。「ごめんよ、残念ながら殺さなきゃならないんだ。だから、こうする時は謝らなくちゃいけない」。無垢な娘にどうこの悪を説明するというのだろう?
 それから、どうやってそうしないか、彼らを見る見方をどうするのか、話した。彼らを救おうというのではない。ただ慈しむ。ことから憎しみを取り去るのだ。わたしたちは皆、ゴキブリを見つけ主に助けを求め、女の子が叫び、男たち(と強く精悍ないくらかの女たち)が、恐れ多くもわれらが家に入り込んだ卑しく醜いゴキブリを叩き潰すべくサンダルを手に取る、というのに慣れきっている。だが中には、ゴキブリを紙か何かでひょっと持ち上げ、外に放す人もいる。こうした行いは、確かに外に公園があってくれないと困るが、細かいことはいい。大事なのは、こうした行いをする気持ちだ。慈しむ気持ちと、ゴキブリは別に敵でも何でもない、ということを分かることだ。これは小さく弱い生き物で、生きようとしていて、時に状況から、やむを得ず人の住む家の排水口から入り込んでしまう、ということだ。もしわたしたちがこう考え、慈しめば、たとえ彼らを殺してしまうにしても、わたしたちの姿は大分良くなるかと思う。自分自身に対する、子供たちに対する、ゴキブリたちに対するわたしたちの姿が、大いに良くなるだろう。
 最後に、この問題の大事なことは、虫への慈しみが世の中を変えるとか何とか、そういうことではない。虫への慈しみが、わたしたち自身の中で、本当に何かを変えるかもしれない、ということだ。好きではない者たちのことを、憎む必要はない、と理解するかもしれない。他人すべてを、違った見方で見るようになるかもしれない。この時には、わたしたちが学ばなければならない、最も重要な教えの一つについて、最も小さな生き物に借りを作ったことになろう。

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