以前にエジプトで、日本に行ったことのあるエジプト人と、他のエジプト人(すべて若者)の会話を横で聞いていたことがあります。
日本に行ったことのある彼が、いくつか驚いたことを挙げているのですが、「道に人がいないんだよ!」というのを強調します。皆意味が分からないようで「じゃあどこにいるの?」と尋ねると「家の中とか仕事してるんじゃないかな」と、上手く答えられません。それなら、エジプト人だってやっていることですから。
逆に、ここだけ取り出して日本人が聞いても、よく分からないかもしれません。「日本だって道に人がいるじゃないか。どこを歩くんだ」と思うでしょう。
要するに「道で座ってダラダラしているヤツがいない」ということです。道が「通るため」だけにしか使われず、他の用途で使っている人がいないのが日本、ということでしょう。
これは、エジプトとの比較だけでなく、様々な国との違いとして指摘されることのある点です。日本だけが特殊なわけではありませんが、「道が通行専用である」度合いがかなり高い地域であることは確かでしょう。
少なくとも二つの軸が、「通行専用度」に相関しているでしょう。一つは経済的な豊かさ、もう一つは道に関する社会的観念。前者は、単に屋根のあるところに住めるかどうか、ということなので、より重要なのは後者です。欧米との違いで「publicの概念が未熟なため公共空間がただのお上の場所になってしまう」という指摘がなされることもありますが、個人の所有ではない空間がどのように認識されるのか、という考え方の違いがある筈です。
日本の場合、「公共空間」が即「お上の土地」になってしまい、「みんなのもの」が「誰のものでもない、誰にも使えない(国家にしか使えない)」に回収されてしまう率が非常に高いです。広場的思想、ギルド的観念があると、第三局的なところが邪魔をしてくれてもうちょっと間にクッションが入るのですが、日本の場合、この領域のパワーも著しく弱いです。この点でも、ネイションの偶像が意識化以前の部分で支配するには、都合の良い土壌が揃っていたのかもしれません。
これに対し、エジプトにはイスラームがある、ということはなくて、別にここもイスラームの統治する地ではないし、支配者の傀儡ぶりが日本よりずっと酷いので、状況はよりシビアですらあります。また、そもそもイスラームがあれば道でみんなブラブラしているのか、大体道でブラブラしているのが良いことなのか、という問いが当然成り立ちます。エジプトの場合、支配者が公共サービスしようというやる気が著しく低いので、道が放置されて、結果的にみんな結婚式やら屋台やらに勝手に使っている、というだけでしょう。また逆に、日本だって一昔前までは、もうちょっと道が社交場として使われているケースが見られた筈です。
この辺りの不分明さを全部認めた上で敢えて言えば、それでもやはり、道の「通行専用度」は、ほどほどまでに抑えるべきである、と考えています。全然通行できないまで行くと、それはもう道ではありませんから(笑)、あくまで程度問題です。
道が通行専用であるということは、人は道を通り、ピンポイントで「目的地」に向かい、管理下にある場所でのみ、決まったネットワーク上でつなげられた人と付き合う、ということになります。会社に行って仕事し同僚と付き合う、みたいなことです。
こういうシステムに慣れてしまうと、そもそも人は大地をどこへ歩いて行こうが勝手であって、基本的に大地は道などで区切られてはおらず、人は土地を歩き出会い語り合うものなのだ、という基本を忘れてしまいがちです。そういう風に人に勝手に井戸端会議をされると、変なパワーが育って脅威になりかねず、しかも領民が勝手にどっかに行ってしまうので、領域国民国家は「道は通るためだけのもの」という考え方が好きなのです。
繰り返しますが、道を通るなというのではありません。道を通らず他人の家を通ったら、それは怒られます。ですが、道なんてものはただの「余り」で、つまり「人の隙間」です。隙間はまだ誰のものでもないのですから、そこで井戸端会議をするのは当たり前なのです。ただ、井戸端会議専用になると通れなくて困るので、通行の便を整える、というものなのです。
大地には人が住みますが、アルハムドリッラー、大地は広く、人が切り刻んで尚余るものです。その余りは、アッラーの領域であり、国家のものでも法人のものでもありません。余った場所が道であるのは、文字通りアッラーの道としてであり、その道を進むということは、時には歩くことですが、時には立ち止まり喋ることであり、時には寝ることでもあるはずです。
そういう意味で、「道の通行専用度」が余りに高い状況は、少し危険だなぁ、と感じています。
追記:
人が土地に住み余ったところが道、みたいな酷い書き方をしてしまいましたが、むしろ道が先だ、というのもあると思います。一つには人は元々ブラブラ歩いていたんだろう、というのがありますが、とにかく道を作る、というケースがあった筈です。道を「通行」という機能に還元してしまうと、道を作ることは自体の政治的意味を見落としがちです。それ故にこそ、権力はアッラーのために道を作らなければならないし、その他のためにただ道を通すなら、既にシルクの陰が忍び寄っているようにも感じます。
その辺りの細かいことは全部捨象した上で、道の通行専用化はちょっと危ないですよ、というお話なので、そういうつもりで眺めてやって下さい。実際はこんな単純な話ではないでしょう。