わたしの欲望は、アッラーの欲望であり、ただアッラーのみの欲望である

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إن هو إلا ذكر للعلمين
لمن شاء منكم أن يستقيم
وما تشاءون إلا أن يشاء الله رب العلمين
これ(クルアーン)こそは,万人への教訓に外ならない。
それはあなたがたの中,誰でも正しい道を歩みたいと望む者のためのものである。
だが万有の主,アッラーの御望みがない限り,あなたがたはこれを望むことも出来ないのである。(81:27-29)

 「アッラーの御望みがない限り,あなたがたはこれを望むことも出来ない」。
 アッラーがお望みにならない限り、「望んだものが手に入らない」のではなく「望むことができない」のだ。
 これは非常に重要なポイントで、近代的自我というモデルに汚染されきったわたしたちは、望むということ自体が最終ラインで、これが個人に帰属すると思い込んでいる。
 「なぜそうしたいの?」という問いは有効だが、「したい」こと自体を問うても仕方がない。「だってしたいから」。そう考えている。
 しかし、本当のところ、個人に帰されている欲望にせよ、わたしたちは社会の様々な動因に駆動されて「望まされている」のであって、絶対の起点としての「わたし」が突然欲望し始めたりするわけではない。わたしたちは、「欲望せよ」という見えざるメッセージに包囲されている。
 アッラーに帰依し、ただアッラーのみに帰依するとは、アッラー以外の何者にも帰依しない、いかなる権威からも自由である「義務」がある、ということだ。
 これは欲望の次元から始まる。
 アッラーの望んだことだけを望む、とは、アッラー以外の望みにより駆動されない、ということだ。
 本当のところ、この態勢の方が、ずっと「起点としての個人」に近い。わたしたちが刷り込まれ操作された「個人」とは、ネイションと資本により組み立てられた世界のパーツに過ぎない。アッラーだけに帰依するとは、そこから自由になることであり、自由である「義務」があるということだ。
 わたしの欲望は、アッラーの欲望であり、ただアッラーのみの欲望である。