非暴力は常にある種の

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米国の白人至上主義にせよ本邦の排外主義にせよ、そんな偏狭さを振りかざしてはこのご時世立ち行かないし、そもそもの経済が越境的なものによって下支えされている。しかし経済が成り立ち生きていければ良いのか、命が一番なのか、という根本的な問いを封じてしまった人間主義、更に95年以降の閉じた一世界性とオルタナティヴへの絶望と冷笑こそが、今日の「反動」を招いているのではないか。命より大事なものなどいくらでもあるし、人類史的に見てそっちの方が余程「普通」の価値観だ。
わたし自身、リベラリズムに涵養された者であり、教条的な面ではナイーヴな排外主義に嫌悪と失笑を禁じ得ないが、しかし、そのような失笑こそ排外主義より一層卑しく視野狭窄的である。
軽々に「今ここでの名誉ある死」を選ぶのは幼稚だが、それは別に「命は大切」で「かけがえのない」ものだからではない。そうした外部なきフラットな世界観こそより一層幼稚であり、正にこの「反動」を陰で牽引しているものだ。そうではなく、例えば、端的に自殺は罪であると神に命じられているから死なない。そうした反理性的で因習的な第三項があってはじめて、「我ーら」の間での理性的で非暴力的な関係が成り立つ。
非暴力は常にある種の暴力性に支えられている。



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