わたしが今なにを見ているのかは、見ている今が一番わかるようでいて、時が経たないとはっきりしない。
見ている対象と見るという行為は異なるし、そもそもが対象を見ているわけではない。対象を見る、という関係が析出されるのは、見るという体験の内部においてではない。
想起において、わたしたちは見るという体験を思い出し、そして見ていた対象を蘇らせるが、それはもちろん、体験そのものではない。しかし対象が発見されるのはこの水位においてのみだろう。もちろん、対象を見る、という行為を敢えて積極的に行うことは可能だが、わたしたちは普通、そのようにして光を目に受けてはいない。
知覚に真があるというのではないし、認識に真があるというのでもない。知覚には到達しないし、認識は閉鎖的予定調和に他ならず他者がいない。
知覚に至ろうとして認識に落ちる、その過程しかない。至ろうとするのは意志だが、意志は関係性に導かれる。
意味が立ち現れる、あるいは意味に落ちてしまうのは、関係性に駆動されて対象そのものへと至ろうとする、その過程においてだろう。
過程は通時的だが関係性は共時的だ。しかし関係性を時間軸上に展開するのではなく、過程を構造としてまとめようというのでもない。
ただ、わたしたちは一本の狭い通路を進むしかなく、そこに関係性を落とし込んでいく作業というのは必要になる。
ここで、過程の時間と落とし込む時間が同一ではないことに注意しなければならない。
語らいの中で、過程は速く語ることもできるしゆっくり語ることもできる。
速く語れば抽象度が上がりわかりやすくなる。ゆっくり語れば細部が具体化し意味は曖昧になる。ゆっくり語って時々速くするのは、単に演出というより、わたしたちの語らいの本性に沿うものだと思う。
もう一つ、距離の問題がある。それは過程という語られる対象の時間と、語っている時間の間の距離である。
語りは対象より常に後に位置するが、あたかも同時的であるかのように内部に入り込むことができる。その緩急もまた、語らいの性質を決定付ける。
また、見ている場所の問題がある。視点と語り手が異なるのは言うまでもないが、語り手もまた「わたし」ではない。
誤って「わたし」という統合と取り違えているものを、解体していく作業が必要になる。あるいは、その作業自体が語らいとも言える。