我々は悪い。だが誰かが許されよう

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 なんにせよ、「自分たちは悪くないんだ」だけ言っている言説が醜悪に過ぎる。ちょっと察しが鈍いけどこれは病気だから悪くないんだ、肌の色が違うけど悪くないんだ、自由だから悪くないんだ、とまあ、実際さして重罪ではないのだろうが、そもそもの話、悪いからなんなのだ? わたしたちは多かれ少なかれ悪くかつ弱い。問題は悪いものに誰が石を投げられるのか、ということであって、良いか悪いかではない。位置をズラしただけで同じことではないか、というのは当て外れで、悪いことと裁くことの間には天地の差がある。その差を実際的な結果的差異だけで見るのは、人の頭の薄っぺらさでしかない。わたしたちは目に見えるものだけで生きているわけではないし、悪いがしかし許される、という、矛盾した境位がある。筋が通らず宙吊りになっていることが生であり、時間だ。穴掘りみたいに淡々と進めれば演算結果が出るとか、誰がやっても同じ答えが出るとか、そんな幼稚な仕組みで世の中はできていない。単純に見えるのは見るものがそれしか見ないからで、わからないもの、なにか残りがある、という留保を失っているからだ。一知半解で知った顔をするのが当たり前だとか、あまつさえ自信ある立派な態度だと勘違いしている。
 じゃあ許そう、許す許す、というのもまた違う。石を投げないことと許すことは違う。何なら石は投げても届かないかもしれないし外れるかもしれない。野球選手でもなければ外れる方が大概だ。許すのは第三者であり、人が人をホイホイ許せるものでもない。そもそもがおこがましいと思わないのか。「○○でもいいよ、わたしは気にしないよ」と、高いところからお許し賜って、頂戴する側はどんな気になるか。恐悦至極に存じます、だ。許す者は禁じる者に等しく、禁じられる者だけが許すことができ、大上段に許せるなら生殺与奪は我のものと宣うも同然だ。何様のつもりか。
 いや、敢えて加害者意識を持ち「許してやる」ならまだわかろう。これなら、石を投げるのと五十歩百歩だ。所詮そういう小さい者同士、悪く弱い者同士、という引き受けがあると言えなくもない。良きもの、讃えを譲るべきものが他にある、という謙虚さが悪しきものにはある。悪いなら悪いなりに良くしようとするのは当然だが、やってなお悪いのが人間だ。弱いのが人間だ。
 結局、第三者の審級に対する留保がないのが傲慢なだけなのだ。我々は悪い。だが誰かが許されよう(主がお望みであれば!)。



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