この浅ましさを見よ

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 反知性主義者という語は修正主義者とかファシストとか一緒で今日的には単なる罵倒語であり、自称されている場合にはそこに何重ものコノテーションを予期しなければ己の間抜けぶりを喧伝する結果にしかならないが、恐ろしいことに本当に無防備に落とし穴に落ちる人は沢山実在する。が、穴に落ちる人はどの道落ちるのだから放っておけばいい。穴が好きなのだろう。
 ところでわたしは明白に”反知性主義者”だが、そこには反ー知性主義という意味でアンチエスタブリッシュメントとしての立場がなくもないが、余談を挟むならそうした意味での反ー知性主義は非常にざっくり言えば疎外への抵抗という意味で大陸的な哲学のエートスとして綿々と受け継がれているもので珍しくもなんともないのではないかとも思う。だがそんなことはどうでもいい。知的権威以前に己の知性を疑うこと自体が本義であり、そのためには反するに足る知性がなければならない。演繹展開することで指の間からこぼれ落ちていくものへの愛惜を語るならせめて指くらい出せなければお話にもならない。愛惜のあまり指の切断も辞さないエロティシズムに身を投げてみようではないか、という狂気の沙汰だけ考えている。これを世の中に投影して権威の問題にすり替えると一見もっともらしい社会問題化するようでこのすり替えの方がよほど疎外だ。世の中がどうなろうと知ったことか。
 苦労して手に入れたものを少しも信じず豪快に流しに捨てる衝動だけが問題で、言うなればその陰画としての執拗なるホメオスタシスこそ否認を通じて主体が伝えるメッセージだ。うさぎの赤ちゃん。この浅ましさを見よ。



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