音楽が鳴っている

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 音楽が鳴っている、とはどういうことだろうか。
 たとえばわたしは、寝ている時は大抵音楽が鳴っていると思うのだけれど、これは、音楽が聞こえている、ということではない。などと言うと、脳のナントカという部位が活動しているとか言いたがる人がいるけれど、そんなメトニミー的置き換えをしたところでどうにもならない(意味作用とならない)。
 別段寝ている時の話などしないでも(しかし寝ている、ということは大切ではある)、鳴っている、という経験は、聞こえている、という経験とは同一ではないもので、普通にカフェかどこかで音楽が鳴っている時でも、大抵は音楽など聞いていないし、そもそも聞くようにカフェの音楽というのはできていないし、それを敢えて聞くという経験は可能だし時々するわけだけれども、やはり大抵は聞いていなくて、でも鳴ってはいる。鳴っている、というのは、聞くか聞かないかとは独立の単なる客観的記述のようではあるけれど、鳴っているなぁ、と思うのは経験であり、まず間違いがないのは、聞いた時に「鳴っている」と思うことだろう。しかし聞いている時だけ鳴っているわけではないし、そのことをわたしたちは知っているし、聞いてはいなかったけれど、ふと意識が少しだけ音、あるいは環境に向きかけた時(まだ向いてはいない)、鳴っている、と思うかもしれないし、より重要なことに、鳴っていた、と思う。
 このことは一つには、聞くともなく聞くという聞きようであって、そのような、言わば感覚の問題としてもとらえることができるし、それはそれで面白いのだけれど、今ひとつには、先に「客観的記述」と言ったような、感覚とは独立に、ただ鳴っている、いわば「森の奥で倒れる木の音」の如く鳴っている、という、そのことを感じる、という経験がある。この後者の方は、経験ではあるけれど感覚ではない。そしてもう少し踏み込むなら、これはこの世で普通に生きている人たちが鼻で独我論を笑うときのように、常識的に考えてわたしが聞いていない時も音は鳴っていると知っている、ということとは違う。もちろん知ってはいるのだけれど、知っている、という状態でも、知る、という経験でもなく、鳴っている、ということをわたしたちは経験できるし、しょっちゅうしている。
 少なくとも確実なところだけを鮮明にするなら、鳴っていた、という時、そこには鳴っている、というある時点の想定が含まれていて、それは数直線のように過去現在未来と並んだ構造を頭に置いた上でスライダーか何かを左に動かして「鳴っている」を再現する、ということではなく(そういう考え方自体は可能だが)、ちょうど思い出が蘇った時の「あの時あの場所にわたしはいたのだなぁ」という感覚にも似て、鳴っている、という経験をわたし自身の延長として知っている。この知っている、は、「聞いていない時も音楽は鳴っていると知っている」の知っているとは違う。「ボールの投げ方を知っている」という方の知っているで、「識っている」みたいな方の知っているだ。
 このことは少し(もしかすると単に比喩だけの次元で、だけれど、そうではないのではないか、と思っている)、場所に残る記憶、みたいなものと繋がっていて、ある場所を訪れることでそこにいた時の記憶が蘇るとか、ある人と会うとか、あるいは匂いを嗅ぐとか、そういうことが記憶の蘇るきっかけとなる、という経験は誰もが持っていると思うのだけれど、その時狭義の記憶そのものは頭の中にあるのだけれど、思い出す当人の経験としては場所の中に記憶があるかのようで、大体がわたしたちの頭自体、頭だけが独立してあるわけがなく、お腹が減っていたり腕が千切れかけていたりすれば頭の働きだってものの考えだって違うもので、腸内フローラとかわざわざそんなことを言わなくても、頭で考えるのの百分の一くらいは足の裏でだって考えているもので(たぶん百分の一よりはずっと多い)、そんな塩梅で道で考えたり家で考えたり材木座のおばあちゃんの家で考えたりするもので、それは道で覚えたり家で覚えたり材木座のおばあちゃんの家で覚えたりしているようなものだ。というと飛躍があるようだけれど、これが飛躍になってしまうのは対象とわたしの二者関係で考えているからで、わたしたちは思い出し語るという営みを通して思い出すという経験を学習するのであって、思い出すとか聞くとかいった経験の前に語り合い共有する、より正確には、一方的にそのように語り聞かされる、という経験が先立つ。けれども一旦習得した後は対象とわたしの二者関係だけでも思考可能であって、しかもこちらの方が登場人物が少ないので基本的な様相なのかと勘違いして、還元しようとしてしまう。還元すると、間が抜けるので間抜けというか、飛躍になる。どこかちぐはぐで一歩間違うとオカルトである(が、そのようなディスクールを経ることで語りたいものがそこにある、というのはもっともだと思う)。
 そして材木座のおばあちゃんの家がわたし一人のものではないように、森の奥で木が倒れる音はする。それは木の問題でも材木座の問題でもなく、おばあちゃんがわたし一人のものではない、ということで、それが思い出すとか聞くとかいうことに先立っていて、それがなければわたしたちは思い出したり聞いたりしない。鳴っている、ということの中には、鳴っていた、ということが含まれていて、鳴っていた、ということは、わたしではない誰かがそれを聞いていた、ということで、わたしが聞くより彼彼女らが聞く方が早く、聞く、という語らい、と、聞くこと、を、わたしたちは、彼彼女らが聞く、ということと、聞くことを語る、ことの中から学び、重要なことに、学んでしまった後で用済み、とはならず、不断にその経験に遡る。
 ついでに言えば、わたしたちは本を読んでいて、わたしの言いたいことはこの人が言ってくれている、言ってくれた、と思う時があるけれど、当然ながら、その筆者が読心術かなにかでわたしたちの心を読んで代わりに書いてくれたわけではないし(しかしそういうパラノイア妄想が稀に登場するのは故なきことではないしある意味「筋が通っている」)、わたしたちが考え書くという営みは最初からそういうもので、誰かが話したり書いたりすることでわたしたちは考え何かを言おうとする。ただしわたしたちの主体を語られたものに分解還元できるとかいう意味ではないし、この違いは重要で、わたしはもちろん他者の言葉だけれど、最初から他者の言葉という前提で名の水準というのはあるのだから、他者の言葉と言ったところで名が消えるわけではないし、わたしが消滅しておばあちゃんだけが存するとかいう具合には進まない。そんなのは当たり前なのだけれど、意外と当たり前が当たり前でないことはあって、わかっているようでなかなか難しく、だから実際、思考奪取といった妄想があって、念慮の水準であれば多くの人が一度は経験しているだろう。この当たり前は、わたしたちが通常暮らしている想像的な常識の延長では了解できない。
 わたしが誰かの言葉、誰ともつかない誰かたちの言葉であるというのは、ほとんどここで言う音楽が鳴っている経験に近いもので、鳴っていることに気付かないまま鳴っていて、遡っていることに気付かないまま遡っていて、しばしば眠っている時に遡っていたりもするのだから(そしてカフェで居眠りをすることもあるのだから)、寝ている時に音楽が鳴っているのは当たり前といえば当たり前で、ただもちろん、寝ている時にだけ音楽が鳴っているわけではないし、ただ、遡る、という営みには、どこか眠りを誘うところがあって、とても狭い意味での覚醒とは相容れないのかもしれない(それはもちろん、覚醒というものを狭く見積もり過ぎているのだけれど)。
 音楽が鳴っている、というのはそういう経験だ。



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