本当のところ、善悪ではなく恥だけを気にしている

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 心の綺麗な人といるのが辛いです。
 そういうことがありませんか。
 本当に純朴で邪なところがない人と一緒にいると、いたたまれなくなるでしょう。何もしていないのに、こっちの黒さを責め立てられるような気分に勝手になったりして。
 いや、白い心の人に見えても、近寄って見ればやっぱり色々あるもので、ちょっとくらいは黒いところもあるものですよ。ですから完全真っ白なんて人はいないんですけどね、それでもやっぱり、程度の問題というか、量的差異みたいのはありますよね。
 正直、そういう心の綺麗な人といるのが辛い。
 こんなに辛い気持ちにさせるのだから、心が綺麗なようで、こいつは実は邪悪なんじゃないか、責を負う形で罪を犯してはいないけれど、存在そのものが邪悪なんじゃないか、とか無理にでも考えようとすることがあります。
 でもどこをどう考えても別段責任はないですし、向こうが善でこっちが悪なんですから、悪の方が悪いに決まっています。悪いから悪なんですし。
 そこで調子を合わせて、心の綺麗な人が辛い気持ちにならないように、こっちも善のフリとかをしてみるのですが、これが本当に辛い。
 いや、それでも善のフリはしなければいけないんですよ。嘘でいいから。そういうのは義務なんです。
 でもね、心が痛いです。それは甘えですけれどね。
 わたしは本当はクズなの!みたいな開示って、一見すると誠実なようで、要は「クズなわたしを受け入れて」ということでしょう。これは甘えですよ。
 でも甘えたい。
 クズだから、甘えたい。
 せめて、わたしと同じくらいのクズを連れてきてもらって、その子と一緒に露悪的な笑みを浮かべて「皆んな陰じゃやることやってんじゃん~」とかワルぶってぬるま湯に浸かっていたい。
 ぬるま湯いいですよねぇ。
 実際、そうやってぬるま湯に浸かって浸かって駄目になっていく人たちが沢山います。わたしもその一人かもしれない。だって楽だから。
 でもやっぱり、それではイケナイんですね。なぜとは言えないですが、踏ん張らないといけない。
 時々ぬるま湯でもいいけれど、熱いお湯にも浸からないといけない。
 善を為すのが難しいんじゃないんです。
 難しいこともありますけれど、やってやれないものでもないでしょう。誰も見ていなければ何とでもなるでしょう。ならないかしら。それはそれで、怠け癖が出る時もあるのだけれど。
 誰も見ていなくても神様が見ていますからね。ああ辛い。見ないで!と思う。
 辛いのは、全然善じゃないくせに善を為すこと。
 ああごめんなさい。わたし本当はクズなのに。
 でも仕方がない。この辛い方が義務なんでしょうからね。そうでないと、心の綺麗な人が傷ついてしまう。
 ああ、損! 損やなぁ!
 最初から心が綺麗に生まれたかったなぁ!
 はっきり言うけれど、わたしは心の綺麗な人なんて大嫌いですよ。
 善だかなんだか知らないけれど、嫌いなものは嫌い!
 嫌いだけれど、そういう人は間違っていませんよ。善ですから。
 そっとしておいてもらえれば、そんなにすごく善でなくても、それほどひどい悪でもない、それくらいで細々やっていきますよ。
 ああ、もう!
 このムズムズする感じ、これは多分、ただ眼差されているということから来る恥なのでしょうね。
 本当のところ、善悪ではなく恥だけを気にしている。
 わたしは、この人の前で善であろうが悪であろうが、やっぱり恥ずかしいんです。
 どっちみち恥をかくのだから、せめて善の方がいくらかマシ、マシだと思いたい、信じておきたい、と、どこか宛もないところに思いながら、顔を真っ赤にして生きているのです。



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