『風立ちぬ』

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 わたしは熱心な映画ファンという訳でもなく、こういう話題になっていて賛否両論ある作品について余計なことを言って叩かれたくもないのですが、一応備忘的に残しておこうと思いました。
 「風立ちぬ」です。
 結論としては、わたしは否定的です。
 ただ、見ている間にブチ切れそうになったり、ブチ切れて帰ってしまったり、というような不快感やつまらなさを味わった訳ではありません。他のジブリ作品に比べると「大人向け」で、血沸き肉踊るものではありませんが、それなりに楽しく最後まで見ることができました。最初に庵野が喋った時は、間違えて変な小劇場芝居を見に来てしまったような恐ろしさを味わいましたが、意外と見ているうちに慣れました。
 ですが、扱っているもの本来の大きさや重さというものに比べて、この演出がどういう意味があるのか、プラスのものが何かあるのか、さっぱり理解できませんでした。
 好きな人は好きなようなので、わたしのセンスがないだけかもわかりませんが、実在の零戦設計者を主人公にしつつ、あのジブリっぽいフワフワとした夢の世界、いかにも作り物っぽい「昔の世界」という絵が、どうにも釈然としません。
 あのフワフワ感、「失われた懐かしい世界」的なものも、純粋にエンターテイメントとして見る分には面白いですし、実際、今までのジブリの作品でさんざん見慣れている訳ですが、仮にも実在人物をモデルにしたお話だと思うと、単に空々しいだけの空虚なものにしか見えません。
 以前に何かのインタビューで、宮崎駿氏が実際にグライダーに乗った話を読みました。氏の飛行機描写については改めて語るまでもなく非常に美しいものがあり、氏が特段のこだわりを持っているのも誰にでもわかりますが、実際に乗ってみたグライダーはナウシカのメーヴェのように綺麗に風に乗るものでもなく、結構グラグラして乗り心地の悪いものだったそうです。
 わたしが感じた違和感というのは、メーヴェと実際のグライダーの間にあるようなものです。
 メーヴェの飛行イメージはとても美しいですし、おそらくその美しさは、わたしたちの脳内、あるいはミーム的に伝承してきた集合的な記憶の中で共有されている何かに対応物を持つことに由来するでしょう。つまりわたしたちのイメージする「飛んでいる感じ」を代理しているのです。
 しかし実際の飛行機は必ずしも「飛んでいる感じ」のように飛ぶ訳ではありません。
 別段、実際の飛行機が「リアル」であり、それを第一とすべき、などと言うのではありません。むしろ脳みその中にあるものの方が先にあるのですから、メーヴェはメーヴェで良いのです。わたしも大好きです。しかしそれは、あくまでわたしたちの頭の中、あるいは集合的に受け継いできたイメージをこねくりまわしたものとして美しいのであり、それ以外のものではありません。そのフィールド、神話的というか、物語的文脈を越えた場所にそのイメージが出張すると、何か場違いな感じになってきます。
 少なくともわたしにとって、零戦と大東亜戦争というのは今生きるわたしたちに直接つながる歴史的事象であって、フワフワしたアプローチをするのが自然なものではありません。もちろん、したって良いのですが、そうすることの意味がよく分からない。その結果、何か特別なものが伝わったのかというと、わたしには何も受け取れませんでした。
 もしかすると、この空虚な感じそのものが伝えたかったことなのでしょうか。わたしには非常に残酷というか、無神経な物語のように感じましたが、それ自体がメッセージだというなら、非常に有効に伝わっています。そうだとするなら、庵野のあの歴史的棒読みも納得できます。あの主人公は(実在の堀越がどうであったかは知りませんが)恐ろしく無神経・無配慮で、自分のフワフワとしたもののために血の通っているものを平気で踏み台にしていっているように見えます。

 ついでながら、堀辰雄の『風立ちぬ』にはほんのちょっとだけ因縁があります。
 中学・高校の頃に、学校の雑誌を編集するようなことをしていたのですが、この学校は非常にマセたガキどものいる進学校で、堀辰雄の『風立ちぬ』についての評論を投稿してくるような生徒がいました。わたしがこの活動で最初に受け持ったのが、この堀辰雄についての文芸批評でした。お陰で中学生ながら堀辰雄についての知見を得ることが出来たのですが、当時は全く面白さを理解できず、今も理解できません。
 そして、宮崎駿の『風立ちぬ』における菜穂子も、全く共感できないキモい女でしかないし、あんな恥ずかしいイメージを未だに振りかざしている世界というのも理解しがたいです。乾布摩擦と空手で結核を治して鬼畜米英と戦ってくれたりしたら面白かったのですが。



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