ロバート・ゼメキス監督、デンゼル・ワシントン主演の映画『フライト』を観てきました。
予想もしていなかった良い映画で、久々に映画館でボロボロ泣いてしまいました。
オークランドからアトランタに向かっていた航空機が突然急降下を始めてしまった。機長のウィップ・ウィトカーは制御不能となった航空機を背面飛行させた後に地上への胴体着陸を試みた結果、乗客・乗員102名のうち96名が生還を果たした。ウィップは「奇跡のパイロット」として一躍時の人となる。ところが事故調査委員会はウィップの血液からアルコールが検出されたとして彼に過失致死罪の適用を検討していた。実はウィップはアルコール依存症でコカインの常習者だったのである。過失致死罪となれば終身刑の身となるウィップは、次第に追い詰められていく。フライト (映画) – Wikipedia
今、Wikipediaを見たらアルコール依存症のことも書いてありましたが、わたしが観る前に知っていた予備知識は飛行機事故の映画ということだけで、ポスターの雰囲気から、「事故の責任を一パイロットに押し付けもみ消そうとする組織の巨悪と闘う!」みたいな話かと思っていました。
実際、事故原因は主人公の操縦にあるのではありません。明らかに機体の問題で、主人公は超人的な技量で被害を最小限に抑えたのです。
しかし彼はアルコール依存症で、生還した体内からもその反応が出てしまいます。彼と弁護士らは不利となるこの事実をなんとか隠し、事故の真の原因を示そうとします。実際、本当の原因は機体にある訳ですから、状況は少し複雑です。
ですが、この映画のテーマは事故そのものではありません。事故はあくまできっかけであり、中心になっているのは、弱い心とその弱さを認め、受け入れることです。
そして、この映画は非常に宗教的でもあります。
宗教的、というのは、狭い意味でストーリーにいわゆる宗教的要素がある、ということではなく、信仰の本質に近い部分で映画全体が宗教的である、ということです。ただし、具体的に宗教的要素の符丁もあります。
まず、墜落現場そのものがバプテスト教会の目の前で、墜落直前に翼が教会と接触していること。そして救助にはこの教会の信徒たちが加わっています。また、重大な障害を抱えることになった副操縦士とその妻が敬虔なクリスチャンで、事故を災厄であると同時に祝福として迎えようとしています。
しかし一番重要なのは、主人公が事故後収容された病院の非常階段でのシーンです。
この場面で、彼はもう一人の重要な登場人物であるケリー・ライリー演じる薬物依存症の女性に出会います。そしてこの場面にはもう一人、ジェームズ・バッジ・デール演じるガン患者が居合わせます。三人は入院中にも関わらず、煙草を吸おうとして非常階段を訪れ、そこで出会うのです。
「ワルの考えることは一緒だな」と照れ笑いしながら三人は知り合うのですが、印象的なのはガン患者です。彼は点滴のパックをぶら下げたまま登場するのですが、おそらくは抗癌剤治療で髪の毛が抜け落ちている以外は相貌も健康的で、非常に陽気です。「煙草を吸ったら俺のガンがガンになっちまう」などとおどけています。
話の流れで、「神を信じるのか」と問われた彼は、「当たり前だ、神を信じないヤツはバカだ、どうにもならないことは神様が引き受けてくれるんだから、人生はずっと楽になる」と返します。同時に、「ガンになりたいヤツがガンになることができるか」「治すのだって一緒だ」「俺も神様に治すように頼んでみたが、ダメだった」と言います。
一見するとこれらは矛盾するのですが、同時に一つのことです。これが信仰の本質において極めて重要な点です。個人的には、この矛盾が止揚される点にこそ、信仰の最も重要な場所がある、と言い切りたいくらいです。
神様はガン患者が頼んだところで、ガンを治したりしません。
主は全知にして全能であられますが、何もしないのです。
正確に言えば、人間にとっての見えにおいては、ほとんど何もしません。たまに何かあると「奇跡」とか言われて騒ぎ立てられますが、そんなものはオマケのようなものです。
何もしないのは、在るもののすべて、行われることのすべては、既に主の御業だからです。
在るもののすべて、在るということに対して積極的に向き合おうとするのが信仰です。そこで敢えて向き合う行いを入れるのは、放っておくとわたしたちは在るということ、起こるべくしてすべてが起こる、ということから遊離してしまうからです。動物であれば、その流れと一体化しています(そのように見える)。しかし人間は、意識と知性をもってそこから身を引き剥がし、「有り得なかったもの」を考え、世界に可能的にアプローチし、未来を変えようとします。それは素晴らしいことですが、同時に危険でもあります。そのような可能的思考そのものが、在るべくして在る一つの世界の一部に過ぎないのに、それを忘れてしまうからです。ですから、その差分を埋めて引き戻すように、信仰という行いがあるのです。
これは自由意志の問題とも関連していて、例えば、すべてが運命で神様が全部決めているのなら、あらゆる責任は神様にある、とも言えます。しかし、当然ながら、実際の世の中ではそんな言い訳は通りませんし、また倫理的にも受け入れられません。あるイスラームの考え方では、自由は実際にはないのだけれど、自由であるかのような感覚があり、その感覚の与えられている限りにおいて責任がある、と言います。その辺の細かい理屈の付け方はどうでもいいのですが、「実は自由などないけれど、同時に自由があるような感覚があり、その感覚に基いて行動することができ、未来を変えることができる(気がする)」ということが大切です。この差分が、ヒトの能力でもあり、弱点でもあります。そしてその差分を活かしたまま、補完しているのが信仰です(ですから、差分を殺すまでになっている宗教行為には疑念があります)。
話が大きくなりましたが、ガン患者はこの絶対矛盾であり一なるものを示し、またおどけた調子で退場します。この患者が登場するのは一シーンだけですが、このシーンは映画全体の中でも最も重要な部分の一つでしょう。
この場面で、デンゼル・ワシントン演じる主人公は、薬物依存症の女性に「こうしていると世界に二人だけ取り残されたみたいだ」「そして二人が世界を救うんだ」とおどけてみせますが、ある意味、予言は成就し、二人は世界を救います。
筋書き上予想できる展開なので書かせて頂きますが、彼は最終的に自分の弱さと向き合い、受け入れます。
実に勇敢で、それは背面飛行で乗り切った彼の超人的な操縦技術に勝るとも劣らないものです。
この場面では一つどんでん返しがあり(内緒にしておきます)、ストーリー構成上はちょっと弱いところもあるのですが、彼の回心は素晴らしく胸を打ちます。
それが誰にも伝わらなくても、主はご覧になっていますから十分なのですが、映画では主は祝福を与えられ、最後に一人、援軍が遣わされます。本当はこの場面がない方が、宗教的な本質にとっては(主のみがご覧になっている)「正確」ではあるのですが、映画的には非常に感動的で、分かりやすくなっています。
映画における「宗教」は当然ながらキリスト教で、わたしの信仰している「宗教」とは異なるのですが、個人的には、そうしたことは重要だとは思っていません(少なからぬムスリム同胞の怒りを買うかもしれませんが)。どのみち信仰とは、主とわたしの一対一の関係こそが第一義であり、唯一なる主、在るべくして在るすべてと向き合う絶対矛盾があるなら、他は些事に過ぎないとわたしは考えています。
逆に言えば、この矛盾を見ず、祈ったら何か良いことがある、といった御利益宗教的な見方をしている限りは、イスラームだろうがキリスト教だろうが、戯言に過ぎないでしょう。
もちろん、祈っても良いです。映画の中のガン患者も治してもらえるよう祈りましたし、わたしたちは常に祈っています。そして祈るのならただ主にのみ祈らないといけません。
ただ、祈りは通じたり通じなかったりしますし、それはすべて主のご都合で、御札を買ったら恋が実るような取引関係にはありません。そうしたことに全く何の影響も受けない、つまり祈ろうが祈るまいが何一つ変わりがなく、それを受け入れながら尚祈る、そうした祈りだけが、信仰における祈りです。
それは丁度、映画の主人公が弱さを受け入れるようで、そしてそれを認めることが、事故の原因とは何の関係もなく、ただ「認めるだけ損」であるかのように。