「命の値段が高い国、安い国」という視点があります。
安い高いというのは、殺人などより、不慮の事故などを起こしてしまった場合の値段を見る方が分かりやすいです。
いわゆる先進諸国は、概ね「命の値段の高い国」で、人を死なせてしまえば、大抵の場合、様々な形で大きな責を負うことになります。
一方で、「命の値段の安い国」もあり、意図的に殺した場合はともかく、交通事故などで人をはねてしまっても、驚くほど安いお金で解決できるところがあります。エジプトなども、ほとんどの場合「轢かれ損」です。
社会の成熟度ということで見れば、当然ながら「命の値段が高い」方がまともで、上品であることは間違いありません。「命の値段が安い」ということは、「やったモン勝ち」ということです。
一方で、「命の値段が高い」ことで、「命の尊さ」が認められているかと言えば、そういう訳でもありません。むしろかえって、尊さの質が見えなくなっているところもあります。
もちろん「安い」方が良い、ということはありませんが、社会制度・成熟度として「命の値段」がつり上がったところで、別段生命の質的な価値がより深く認識される、ということはないでしょう。なぜなら、命の値打ちというものは、そもそも交換価値から来ているものではないからです。
そこを敢えて交換価値で表して計量可能にするのが、「命の値段」、つまり賠償金などの社会制度・慣例な訳ですが、こうしたシステムは、当然ながら、歴史的過程を経て徐々に整備されていったものです。
ですから、そもそもの値段というものを強引の言ってみるなら、命というのは元々安いものです。元は安かったのが、最近になって一部の地域で高くなったのです。
そうした地域は、大抵特殊出生率の低い国なので、人口が有り余っていると価値が下がる、という見方もできますが、世界的に見れば人間の数はどんどん増えているのに、少なくとも一部の地域でだけは値段がつり上がっている、ということです。
ともかく、最初は安かった筈です。もっと昔に遡れば、命は「無料」だったのではないかと思います。
無料だったら好きなだけ殺していいのかといえば、そんな訳はなく、それはそれで尊さとか重さは認識されていたでしょう。
「無料」なのに値打ちがあるというのは、それが「スゴイ拾い物」だからです。
無料なのは、拾ったものだからです。交換されたものではないのです。
一方で、拾ったものでも値打ちはあります。拾った後で交換する意味での価値、というのもありますが、そうしないでも値打ちはあります。大体、生き物は基本的に拾ったものを食べて生きているのです。
本当のところ、人間だって今でも拾ったものを食べて生きています。農家の人が作物を育てるにしても、彼らが魔法で生命を作れるわけではありません。農家の人の仕事は養母のようなもので、預かって育てているのです。基本的に、命は拾い物です。
拾い物でも、値打ちのあるものはあるのです。そもそも最初は全部拾い物なのですから、拾ったものにこそ値打ちを見出さないといけません。
命の値段が高くなるのは結構なのですが、そこでだけ値打ちが測られると、拾い物の値打ちというのが見えなくなります。
拾っただけのものなら、値段がないかのようです。
命の値段が安かろうが、値打ちがあるのは当たり前のことなのに、それがかえって見えなくなる。常に見えない訳ではないけれど、見えにくくなり、大きな声で言うことはカッコ悪いかのようになる。そこは少し気持ちが悪いです。
わたしは大分以前に当時十代だった身内を亡くしたことがありますが、その時周りで賠償がどうこうといった話をしているのが、すごく気持ちが悪かったです。わたし自身若かったので、中二的な潔癖症だったのでしょう。
しかし感覚的には、今でもこれが間違っているとは思いません。病気や障害で治療費がかかるならともかく、死んでしまったなら、いくらお金を貰ってもどうしようもないからです。
それでもお金にしようとするのは、そこで失われたものの値打ち、失わせてしまった責というものを、はっきりと記し付けようとするためなのでしょうが、その方便が「命の値段」的なものしかないなら、何とも哀れに見えます。自信のなさの裏返しにしか見えません。
そこでお金を貰うなら、自ら手を汚して敵討ちでもする方がずっと真っ当だと、わたしは信じています(件の死については、不慮の事故だったので、誰も敵討ちなどは考えませんでしたが)。
値段を付けなければ人には伝わらないのかもしれませんが、どのみち、本当に値打ちのあるものは、人になど伝わるものではありません。誰も交換してくれなくても、値打ちのあるものは値打ちがあるのです。
それを徹底的に信じて、確信できなければ、結局、値打ちを見出している自分自身の値打ちが浅いということです。
自分自身の値打ちが浅ければ、お金を貰おうがどうしようが、自信も安らぎも得られないかと思います。
そこで疑いを抱いてはいけないし、物凄い勢いで信じないといけません。もっと狂わないといけない。
命の値段が安いと、常にちゃんと狂って、テンションを上げておかないといけません。これは疲れるし、基本的に嬉しくないのですが、値打ちがちゃんと分かる、という僅かな利点はあります。
命は拾い物で、その生命の値打ちを保証するものは主の恵みたる一点しかないと、わたしは考えています。
この世はメキシコの砂漠のように茫漠としてだだっ広く、拾い物をギュッと握りしめて全力で走らなければ、誰も値打ちな分かってくれません。ただ天の高みより保証してくださる御方以外に、何も信じられるものなどない。