「おおかみこどもの雨と雪」を見てきました。
既にアニメや映画に造詣の深い多くの方々が語っているでしょうし、以下はただの感想です。
ネット上でしばしば見かける「母の理想化の気持ち悪さ」「田舎の理想化の気持ち悪さ」というのは全くその通りで、特に前者については身の毛もよだつばかりなのですが、それを差し引いても映画としてとても楽しかったです。
まず大前提ですが、わたし個人は、映画だろうが学術書や技術書であろうが、基本的にはすべて広義の「娯楽」だと信じています。学問や実用を装うものについては厄介ですが、所詮そこにあるのは「絵」や「字」でしかないし、これらはそれ自体を「愉しむ」だけのものです。
たとえばボクシングの技術書を読んで、実際にボクシング技術が向上することがあったとしても、それはボクシングの練習あっての話、読む以前から彼または彼女がボクサーで、かつ読んだことをボクシングで実行する限りにおいてです。そしてボクシングそのものは本の外にあるものですから、字はどこまでも字でしかありません。逆に、「全く役に立たない実用書」であっても、本として面白いということは大いにあります。実際、そういう「実用書」は沢山あって、個人的には結構好きです。
映画やマンガはあからさまに「娯楽」ですから、これを勘違いする人間などいないように思えますが、実際のところは、これらを格別に愛する人達が大いに深読みし、メッセージや意味を読み取ろうとします。エヴァンゲリオンの庵野秀明監督が、エヴァンゲリオンについて「娯楽として作ったのに依存の対象とする人たちが多かった」という旨の発言をされていますが、こうした姿勢が「娯楽」から娯楽以上のものを受け取ろうとするものです。実用や学問的高尚さを装うものすら「娯楽」と言うのですから、映画が楽しみ以外の何者である可能性もありません。もちろん、そこから「メッセージ」を引き出して字を書くことはできますが、これもまた「娯楽」の延長です。
前置きが長いですが、「おおかみこどもの雨と雪」も当然「娯楽」な訳ですから、「母の理想化」も「田舎の理想化」も、単なる定番の道具立てとして導入されているに過ぎないでしょう(もしかすると本気でこう考えて盛り込んでいるのかもしれませんが、だとしても監督が気持ち悪い人だというだけで、映画の質には関係ないでしょう)。そして道具立てという意味では、(別に目新しくはないが)大いに機能していて、面白かったですから、この点について文句はありません。単に「メッセージ」を受け取らなければ良いだけです。
それより気になったのは、この作品の(多分良い意味での)「バランスの悪さ」です。同じく細田守監督の「時をかける少女」にも、似たような「バランスの悪さ」を感じました。
両方とも結果として、わたしは面白く拝見したのですが、冷静に思い返すと色々とおかしなところがあって、最後も唐突で何か尻切れトンボな印象を受けます。それも、一応話としては完結している筈なのに、何か「終わっていない」気分が残るのです。
似たような感覚を覚えたアニメ作品というと、ジブリの「魔女の宅急便」があります。これもどこか「バランスが悪」く、終わっているのに「終わっていない」感じがして、しかもちゃんと面白かったです。
もし自分が作家サイドにいたとしたら、例えばエピローグ的なものをつけてまとめようとするように思います。「おおかみこどもの雨と雪」で言えば、エンドロールと一緒に大人になった雪の姿が映し出されるとか、そういった演出です。
しかし、この作品にはそれがない。何か「終わっていない」感じがします。
この感じは、何かとてつもない出来事があって「夢なんじゃないか」と疑う感じに似ています。実際、映画は終わり、わたしたちは映画館の薄暗がりの中に呼び戻されます。本当に夢だったのです。
そして「夢なんじゃないか」と思って夢から覚めたが故に、この不安は覚めた後にも残ります。まだ何か、「覚める」余地があるからです。「ここ」もまた、「終わっていない」、宙吊りの場所で、ふとしたはずみにとてつもない崩壊が起きて、夢から覚めるのではないか、と怯えるのです。
作品自体の中に似た構造を探すと、雨と雪の父、花の夫であった狼男の死があります。
この死が恐ろしいのは、それが唐突であったからではなく(多くの死は唐突です)、彼の死体がパッカー車に乗せられ、無情にも運び去られてしまうからです。
彼は突然にモノにされて、花の目の前から連れ去られてしまうのです。
もちろん、死ねば「モノ」になります。しかし「唐突」ではありません。死の概念はあくまでサンボリックなもので、デジタルに生と分かたれるものですが、イマジネールな、つまりわたしたちが目にする肉のある世界では、身体がゆっくりと死体へと変わるのであり、「此処から先が確実に死です」という印が予め決まっている訳ではありません。だから脳死だとか心臓の停止だとかいった「印」を探すのです。
ゆっくり変わるということは、もしかすると死体が生き返るかもしれません。これは大変びっくりするので、わたしたちは死体に「死にました」という印をつけます。心臓が止まったのを確かめて、弔いを行います。7日も49日もかけて、確実に「殺す」のです。生き返ってこないように。
ところが、「彼」は弔いも何もなく、突然にパッカー車に詰め込まれてしまいます。確かに「彼」は「死んだ」のですが、どこか「死んでいない」、殺しきれていない感じがします。これは非常に恐ろしい。お葬式がないというのは、大変に不安なことです。
「(死んだ)彼の心は、いつまでもボクたちの中で生き続けているんだ!」というのは、ちゃんと弔いを行った人たちだけが言える台詞です。実際は生きてなどいないことがハッキリしているから、安心して「生きている」と言えるのです。キチンと殺せなかった人たちは、「本当に」生きています。亡霊のように徘徊し、突然の破綻を招き入れるのです。
しかも作品の中で、亡霊は復讐を果たせていません。雨がその父と同じく突然に母の前から去るとしても、これは「キチンと殺された」父の後を追う息子というファンタジーと同形であり、いきなり肉になり露出した不安を回収するものではありません。物語の中では、きっと花が(映画には映らないところで)何らかの儀式でもやったのでしょうが、観ているわたしたちはずっと亡霊に取り憑かれたままです。
この取り憑かれた感じというのが、映画の「終わっていない」感に照応しています。
映画が終わっても、何かまだ夢から覚める余地があるような不安。
その不安から見返すと、あの牧歌的な風景も書割のようで、母はますます肉となり肥大し、「自然」「田舎」のグロテスクさもとどまるところなく肥大し、ついにはその獰猛な怪物性をむき出しにするようです。デヴィット・リンチの世界の、過剰なまでに色鮮やかな緑のように。
そして実際、「この」夢の中では、そうした不気味が今も続いています。映画は面白いですが、わたしは「この」夢が恐ろしい。
おおかみこどもの雨と雪 (角川文庫) 細田 守 角川書店(角川グループパブリッシング) 2012-06-22 |