カミユの『ペスト』を漫画化した作品を触りのところだけ読んだ。漫画というのはどうしてもキャラクター中心でかつ情念や行動を軸に動かざるを得ない表現で、その点で漫画化は大変意欲的ではありものの、翻案するのは苦しかったと思う。漫画でなくても、今のわたしたちが感染症と戦う人々を描くとしたら、漫然とことにあたれば「漫画的」に書いてしまうきらいがある。
『ペスト』は全然漫画的ではない。病に侵され死に瀕した人間の苦しみや、家族を失う悲しみ、病気に包囲される不安が生々しく描かれる場面がないとは言わないが、明らかに意図的に強く抑制され、描写は作為的・限定的にのみ開放される。
それくらい『ペスト』は(素材から想像されるのとは異なり)突き放した文体を維持していて、概ねいわゆる「神の視点」から書かれて見えるのだが、実はこの作品は一人称である。三人称的な語らいが延々と続く中、時々「筆者」や「記録者」が現れ、かつこの「筆者」はメタ的な存在ではなく、あくまでもオラン市の一市民であること、つまり物語世界の中に登場し得る存在であることが明示されている。
にも関わらず「筆者」は自分自身についてほとんど語らないため、既に登場しているいずれかの人物が実は「筆者」なのではないか、という疑いへと読み手は必然的に導かれる。すぐに思いつくのは、主人公と言える医師リユーの元で保健隊を率い、この災厄の記録を付けていることが物語中ではっきりと示されているタルーが、真の語り手ではないか、ということだろう。小説家志望で死者の集計を行うことになるの冴えない役人のグラン、たまたまオラン市に滞在して封鎖に巻き込まれ、何度となく脱出を企てる新聞記者のランベールも、間違いなく意図的に「書く人」として配されていて、ペストを神の懲罰として語る(そして後半になり揺らいでいく)パヌルー神父も、陰の記録者であってもおかしくない感じがする。
一方で、「筆者」が劇中世界に登場可能な一人間であるにも関わらず、あまりにも多くの人々の間に「神の視点」のように入り込むことについて、読み手は疑惑に導かれる。果たして「筆者」は本当に劇中人物なのだろうか、メタ的な存在に過ぎないのではないか、という疑いを多くの読者が感じたことだろう。
物語の一つの山場は予審判事オトンの息子が感染し、血清の投与によりいくらか持ちこたえたものの、「これで死んだらただ苦しみを引き伸ばしただけになる」との言葉があったにも関わらず、正に「苦しみを引き伸ばされた」だけで死んでいく不条理かつ生々しい場面、この受け入れがたさを描くためにこそ、前段で徹底した抑制がなされていたことが容易に理解できる下りである。当初はペストに「意味」を見出そうとしていたパヌルー神父はこの理不尽さ、無意味さを前に当惑を覚える。一方でこの時期を山として、次第にペストは収束に向かっていく。
出口の明かりが見えたところで、これも描写が光り輝く数少ない場面の一つである海水浴が訪れる。共に奮闘を続けてきたリユーとタルーが、束の間の休息として裸になって海に泳ぐ場面で、非常な長台詞をもって二人の友情が語られる下りであることを考えれば、これが交接にも似た象徴的場面であることは明らかだろう。
ところがこの交わりからいくらも経たないうちに、おそらくは弱毒化し始めていたペストにタルーは感染し、血清の投与も虚しくリユーに見守れながら帰らぬ人となってしまう。記録者の第一候補であったはずのタルーが、話の終わりを待たずして物語から退場してしまったことに、読み手も戸惑いを覚えるに違いない。
物語の最後に至って、「筆者」はとうとう、自らの正体が医師リユーであることを告白する。では『ペスト』は、リユーの視点から見たオラン市、リユーによる災厄の記録だったのだろうか。もちろん違う。この語りは、亡き友タルーが記録したものを、彼の死を受けて言わば伝聞の形でリユーが引き継いだものなのである。もちろんタルーも、ただ自分の目で見たものを書き記したのではなく、ペスト禍に見舞われ恐れおののく多くの人々、感染者とその家族の語るものを記していたのであり、その中には既にこの世にいない人物も含まれるだろう。つまり『ペスト』とは、死者たちの声を語り継ぐ語りに他ならない。
物語全体を貫く抑制は、「これはわたしの声ではないが、それでもわたしは語らなければならない」という逡巡と言い切れなさ、そしてそれを乗り越えるための覚悟を映している。無数の死者たちによって紡がれたこの語りの中で、リユーがタルーに対し抱いていたに違いない情念や連帯感などは、葬列の前で項垂れるように抑制されざるを得ないし、だからこそそれが、友を失った一個人の出来事を超えて長い列の中へと編み込まれる。
理由も目的もわからないままただ列に並ぶことを強いられた人間が、他の選択肢を一切持たないまま、前に並ぶ背をただ呪う以外の言葉を口にする方法、すなわち列を引き継ぐことを受け入れ、怯え戸惑いながらもその責任を引き受け、列全体を見渡すかのように重く静かに語り始める過程を、この小説は描いている。
多分、高校生ぐらいの頃に一度は読み、新訳が出てコロナ禍で流行ったものの斜に構えて機を逸し、今頃になって読んでみた者の簡単な覚え書きです。