「言葉の暴力」とかいい加減な言葉を使うことこそ暴力なのだけれど、世間の大勢、というより表向きは、気に食わないものや都合の悪いものは暴力ということにして、その暴力は悪いものだからそいつは悪い、という、そういう暴力を使いたいだけの話なので、言葉の暴力がやむことはない。
百歩譲ってそれが暴力なのだとして、さて暴力とは何か、といつでも問えるのだけれど、そこを問わない暴力は不問に付される。
加えて言うなら、その暴力が「悪い」ことなのはどうしてなのか、そもそも「悪い」のか、という問いもまた、暴力的に封じられている。
暴力を問い続けることでしか暴力に抗することはできないのだけれど、少なからぬ人々は言葉とモノの張り付いた試験管的世界に暮らしていて、その箱庭の中でメトニミー的に意味を辿っている、というより、辿った気になっているけれど、そこに意味作用(signifiaction)はない。
手っ取り早く手短かに済ませたければ暴力的になるのだから、今どきのマスメディア的振る舞いは否応なく暴力じみてくるわけで、誰もがチキンレースのような、ぎりぎりのギャンブルに興じている。その暴力を突きつけられれば暴力も方便と開き直るわけだ。
ならば方便にもならない狭義の暴力だけが、唯一、短絡の誹りを免れられるだろう。そこには手短かに済ませてしまった「隠された意味」がないのだから。
そうでなければ、長い長い話に付き合うより他にない。