言うまでもなく、頑張ればなんとかなるというのは端的に嘘なのですが、この手のお話というのは単に事実を映そうとするものではなく、ある種の世界観、物事の見方、理想を含むサンボリックなものを示そうとしています。ここでの理想とは、例えば「努力が報われる社会」です。本体はこちらの方で、こちらこそ問題にしなければいけません。それは、努力とそれに対する(社会的)報奨、という二項的関係です。
まず、割合に卑近というか、俗世的なお話をすれば、この二項的関係というのは自己努力自己責任の世界です。(たまたま)うまく行った人はその人の自己努力のお陰、(たまたま)うまく行かなかった人は自己責任、ということで、ベタなことを言えば、搾取と格差の構造を固定化させる方向に働くわけです。うまく行った方が勝手に自画自賛している分にはまだマシですが、行かなかった人までもが牙を抜かれてションボリさせられます。というより、正にそのような効果を狙って(つまり、うまく行かなかった人間が分前を求めてキレて暴れないように)こうしたファンタジーをバラまいているのでしょう。おまけに、自己努力自己責任というのは、個が個で完結する分断の思想ですから、持てる者にとってはシモジモをバラバラにして地位を保つには都合がよろしいです。
本題はここからで、努力とそれに対する(社会的)報奨というこの二項的関係は、そもそもの世界が貧相なのです。この報奨というのが、水平方向、他者ならぬ他我のような他人から来ることしか想像できないからです。報われるとしたら人に認めてもらうとか褒めてもらうとか、そういう方向しかイメージできない。そっちが駄目なら、「他人は認めてくれないけれど、好きだからやってるんだ」と、すぐに自己の方に帰ってきてしまう。他者評価か自己満足か、というのは、自己努力自己責任の釈迦の掌な訳です。
本当のところ、大事なのは三番目なのです。それはもちろん、神様なのですが、そう言うとクルクルパーだと思わますので、試しに言い換えをすれば、例えば「行」です。ギョウですよ、ギョウ。水垢離とか滝行とか、ああいうものです。ただただやる。あの手のものを見ると、脳みそのふやけた現代人は「好きでやってるのね」などと考えるのですが、好きなわけがないでしょう。好きとかなんとか、もう関係ないのです。でもやるんだよ!の精神です。そういう方が、大方の日本人にはまだピンと来るかもしれません。
ついでに言えば、ここで水垢離しているおじさんを見て「好きなのね」などと勝手に「わかって」しまう危険をよく考えないといけません。最近で言えば真理はいつも遅れてやって来る、わからないことを畏れよなどで書いている「わかる」ことの危険性というのがコレです。安易にわかってしまうというのは、狭い自分の了見の中で了解してしまう、ということで、結局自分の世界から一歩も出ていないのです。わからないのが当たり前で、それが他者というもので、他者を畏れ身を守らなければいけません。それがタクワーتقوىでしょう。「少数者に理解のある社会を!」などというのはデマカセも良いところで、わかるわけないのですから、わからない前提で、わからないものをナメてかからないことです。道に落ちているキノコを見つけて、とりあえず食べてみる馬鹿はいません。軽々に触るものではないし、触る時は刺し違える覚悟くらい固めないといけません。
話を戻すと、三番目というのは「義務」でも良いでしょう。「歴史の要請」というのもあります。これらはいずれも、現代的な骨抜きファンタジーの元では嘲笑の的にされているものですが、正に笑わせるためにそのようなファンタジーが構築されている訳ですから、当然です。いずれも三番目という意味で神様的な系に属するものです。好きでもない。誰も認めない。しかしやる。そういう次元というのがあって、なおかつ、本来人の軸足はそこに置かれているのです。なぜなら、他人や世の中がそうそう認めてくれるものでもないのは当然として、わたしたちは好き好んでこの世に生まれてきたわけでもないし、仏教ではないですが生きていることは苦しいことです。人生というのは基本的に罰ゲームであり、試練です(テストは今もって継続中なのではないか)。好きとか楽しいでやれることなど、たかがしれています。他者評価と自己満足の間にある領域こそが最も広く、大抵の人はこの間くらいの中途半端なところを彷徨いながら生きるのです。
もう一つ言えば、三番目というのは、それ自体の升目、それ自体の基準を持っています。大衆の評価が移ろい易くアテにならないのは言うまでもなく、自身の好きとか楽しいというのも、思っているほど確かなものではありません。好きでやっていた筈がいつの間にか苦痛になっている、などというのはよくあるお話です。人の心は取り出して定規で測れるものではありませんから、確かな座標軸というのがありません。コロコロ揺れるものです。義務とか歴史の要請とか、あるいは宗教的実践というのは、升目がありますから、それに添って粛々と実行すれば良いのです。
本当のところ、こうした要素は現代においても大いに存在はしていて、ただ共通の物語の中から排除されているだけです。職人仕事でも芸事でも、何かあることをそれなりな期間真面目にやっていれば、大抵の人は「自分が今やれるだけのことをやっているか」「やるべきことをキッチリ埋めているか」というのがわかるものです。そこを埋めなくても商売としては成り立ったり、楽ができたりはするかもしれませんが、何かやはり残りがある。この残りというもの、ひっかかるものが、三番目です。それに忠実であるのは、一番裏切りのない取引です。
勿論、これを徹底するのもそれはそれで大変に困難な道なわけですが、好きとか他人とか、そんなものに一喜一憂していて、一体どこに向かうつもりなのでしょうか。そいつの勝手と言ってしまえばそれまでですが、それもまた自己責任の内側ですから、大いにお節介を焼いて悪者になって良いと思います。歴史の要請であり、奮闘جهادです。