私が世界を見ていることと世界が私を見ていることは全然違って、対称ですらない。後者が欠落してもそれは安全とか没交渉ということでは全然なく、目にレーザーを当てられるように攻撃を受ける。
ただ、急に光や音がやって来るだけなので、そこに秩序や法則性が発見できず、ただパニックになる。隠れる、ということが唯一の防衛手段になるが、勿論隠れきることはできないし、意外なことに、望んでもいない。この望まなさというのが、ナルシシズムが翻って接続の契機になるということでもある。
世界が私を見ているのなら、完全ではないにせよ、私が私を理解している程度には世界から私を見る。つまり理解はできないのだけれど、理解できないまま存在し運動していることが当たり前になる。
私の位置が私に留まっているというのはほとんど幻覚で、身体性や絶え間ないお喋りによって世界はわたしを見るようになるのだが、多分、幼少時に獲得失敗すると、世界がわたしを見る可能性にすら長らく気づかない。
気づかないでも、レーザー的受動的感覚が十分に鈍麻していれば生き延びられるが、そこも鋭敏だとただ防衛的=攻撃的な人間になる。世界の井戸に私を落とし込んで見下ろす眼差しがまだしも救済になる。
神がいなければ人々と私の間で視座を動かす経路は完全に断たれる。私と世界、どちらかの場所で生涯を閉じる人間ならば、さほど苦しまずに死ぬこともできるのかもしれないが。