神も仏もいる世界

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 「神も仏もない!」という台詞があります。この世に不正がまかり通り、正しい裁きが下されていないことを嘆く文句です。
 神様がいるなら、なぜこの世に悪があるのか、なぜ神様は悪を放置されているのか、というような疑問は、至って自然なことだと思いますし、そこから「こんな不正がまかり通る世界に神様なんかいない」と考えても無理はないでしょう。
 ですが少し考えて、「神も仏もいる」世界だったら、どうなるのでしょうか。「神も仏もいる」世界とは、どんな世界なのでしょうか。
 「神も仏もない」ことの逆を考えるなら、不正が見逃されない、勧善懲悪の世界、ということになるのでしょう。基本的には、まぁ結構なことかとは思います。
 不正が見抜かれる、隠し通すことが出来ない、ということは、透明な世界です。
 連想するのは、特に途上国などで、メディアの発展によって権力の暴虐が告発されるようになったようなことです。アラブ革命は「フェイスブック革命」などとも言われていましたが、これもネットの水平性、即時性がなければ成り立たなかったでしょう。
 別段神様が悪をさばいている訳ではありませんが、無数の匿名子たちが集まって世界を監視しているのです。
 そういう意味では、いわゆる「バカッター」系の騒動というのも、透明で水平な「神も仏もいる」世界のもののように思えます。僅かな不正でも見逃されず、自動化した虫のように人々が群がり、たちまち食い尽くしてしまう世界です。まぁ、こうした匿名の「正義の味方」たちによる私刑については、様々な方面から批判もありますし、「神も仏もいる」世界とイコールには扱えないでしょう。ただ単に「やり過ぎ」なのが問題、とも言えます。それでも、「神も仏もいる」透明性とは通じるものがあるように思います。
 月並みかも分かりませんが、こうした「神も仏もいる」世界というのは、どこかディストピア的で恐ろしいところがあります。
もちろん、不正がまかり通る世界が良いという訳ではありません。
 ただ、「神も仏もいる」世界とは、可能的なものとして想定されるところに意味があるのではないか、と考えるのです。
 実際、多くの民話やフィクションでは勧善懲悪の原則が貫かれています。
 フィクション、とりわけ伝統的に語り継がれている物語というのは、ただ単に荒唐無稽なお話が語られている訳ではなく、それと合わせて現実が初めて成立するような可能的な世界です。フィクションと現実は合わせて一つです。可能的な物語がやんわりと共有されていることで、初めて共同体が機能するのです。
 聖典的テクストの中でも、勧善懲悪の思想が強く流れています。宗教的テクストなのですから、当たり前と言えば当たり前です。
 しかしこれらの物語は、実際にわたしたちが生きている現実とは異なります。今も昔も、ほとんどの世の中は「神も仏もない」だった筈です。全くの無秩序という訳ではもちろんありませんが、不正が見逃されることはあるし、強者が弱者を搾取するのが世の常です。コソドロのような小さな悪が捕まえられても、もっと洗練された「強者の不正」は簡単には取り締まれません。彼らは善悪のルール自体に手を伸ばすことが出来るのです。手の込んだ脱税やネズミ講まがいのビジネスなど、グレーなものは幾らでもあります。万引きなどよりこっちの方が余程「悪」だと思いますが、そういう不正に限って「ルールに則ったビジネス」のフリをするものです。
 可能的なものとして勧善懲悪が説かれながら、現実には結構不正が見逃されている。そうした全体が、合わせて一つなのではないか、と思うのです。
 繰り返しますが、不正がまかり通るのが良い、という意味ではありません。何事も程々が肝要な訳で、やたらに悪がはびこるのが真っ当な訳はありません。しかし、どんなに勧善懲悪や道徳が説かれても、この世に「アカンもの」は存在するのです。それが存在し、かつ可能的なものとして「神も仏もいる」世界が語られている、その全体が一つなのではないか、ということです。その中には多分、ある一定の範囲で「言行不一致」であること自体が織り込まれているのです。

 わたし個人としては、「神も仏もない」この世界を、神様が創られたのだろう、と考えています。なぜそんな世界を創ったのかは、わたしは知りません。神様はとにかくわたしたちの理解を越えたお方ですから、何か理由があるのかもしれませんが、わたしには分かりません。
 屁理屈を言えば、神様が世界を創ったのだから、その世界の中に神様がいないのは当然だろう、という気もします。わたしがジオラマか何かを作っても、その中にわたしはいないでしょう。
 神様は世界の淵、輪郭に立ち現れるもので、「神も仏もいる」世界が語られる「神も仏もない」世界、という、その全体性そのものから微かに伺えるものなのではないでしょうか。



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