言語と国家-言語計画ならびに言語政策の研究 フロリアン クルマス 山下 公子 岩波書店 1987-02 |
日本は世界的にも稀なほど言語的統一が果たされ、地域格差も少なく、識字水準も極めて高いため、言語というと何か「自然」から生まれたもので、一つの「国」の人々が一つの言葉を話すのが当たり前のように感じられてしまうことが多いですが、言うまでもなく言語は極めて政治的な構成物です。言語の発生そのものは「自然」かもしれませんが、それが「国語」化され統一・共通化されるのは、あくまで政治的プロセスによるものです。書記に至っては完全に人工物であり、その標準化は純粋に言語政策上の決定であるに過ぎません。
この国家運営上極めて重要な言語政策について概説したのが、この『言語と国家-言語計画ならびに言語政策の研究』。著者ドイツ人ですが、日本にも長く滞在し日本語を理解し、日本語の例も多く取り上げられているので、親しみ易いです。
いくつか面白かったところを引用します。
バハサ・インドネシア語には子音集団がない。(・・・)しかし、相当数の外来語がジャワ語、オランダ語および英語からインドネシア語に入り、インドネシア語の綴字構造が複雑化してしまった。これらの外来語には子音集団があったからである(例えばcredit、glass、process)。ところで綴字構造は音韻論、並びに形態論上の規則と深く関わるものであるから、子音集団を持つ外来語を取り入れたために、インドネシア語の音韻体系全体が複雑化しかねない。従って、逆に、外来語の方を、インドネシア語本来の綴字構造に合わせる方が良い(例えば英語のstopをsetopという形で取り入れる)。
日本語の綴字構造も、インドネシア語と同じように単純なものであるが、日本語では、外来語は例外なく日本語の体形に合わせて取り入れられている(stopはsutoppu)。これが行われるに際しては、間違いなく文字が重要な役割を果たしている。日本語の文字体系には、日本語使用者に音節構造意識を促す性質がある。外来語の多くは、そもそも子音集団を表示することが全くできない文字によって書き表されるため、新しい外国語をその文字から読み取る場合、それはそれだけですでに日本語化されてしまっているのだ。
「間接統治」というイギリスのアフリカ植民地での政策によって、イギリス植民地内のアフリカ言語は、フランス植民地におけるよりはるかに重要な役割を与えられた。フランス植民地では、植民地内の選良民を同化することが重要な政策であった。その制作にふさわしく、フランス植民地では、フランス本国で定められたフランス語規範がまことに厳密に保持され、その規範言語が、教育の全過程における伝達媒体として用いられていた。それに対して英国の植民地では、英国英語の規範から大幅に逸脱した英語であるとか、また土着言語も、初級学校の授業用語として赦されていたし、部分的にはむしろ奨励されていた。従って、かつての英国植民地では、地方に寄って相当有意差のある英語の変異形が生じ、旧フランス領内のフランス語にはそれほど変異形がないというのも当然のことである。
タンザニアは(・・・)、アフリカ諸国中唯一、公用語および国語としてアフリカのことばを使うことが現実に行われており、かつ、意識的に言語政策として奨励されている国である。
(・・・)
スワヒリ語が囈語に対して優勢であるという指摘は注目に値する。ただしそれは、スワヒリ語というアフリカの言語が、おそらく考えうる最強の敵手であろう英語を向こうに回して一歩も引かないでいるからではない。タンザニアの例が重要なのは、何よりも、住民の大半はスワヒリ語を母語としていない国で、スワヒリ語がここまでの地歩を築いているからなのだ。つまりスワヒリ語は英語と同じく、第二言語の地位を争っているわけである。少なくとも国内では、英語ができなくても指導的地位につくことが可能であるのに対して、スワヒリ語がうまくしゃべれなかったりすると、それは相当の不利を意味することになる。
ジャンムー=カシミール州ではウルドゥー語が公用語である。ただし、この州の住民中、実際母語としてウルドゥー語を用いているのはごく少数である。ほとんどの住民はカシミール語を話す。この状況は少々異常であるが、これは、言語共同体という抽象的概念が実際の社会では何を意味しているかを教えてくれる、面白い例である。つまり、言語共同体と呼ばれているものの境界線は、言語の差異に基いて引かれることもあるが、実は全く同じように非言語的差異によって決まることもあるのだ。例えばジャンムー=カシミール州ではウルドゥー語が州公用語であるが、これは、州住民の大半を占めるイスラム教徒が、ウルドゥー語をイスラム文化の象徴であると見做しているからに他ならない。
個人的には、ダイグロシアという興味深い状況にあるアラビア語圏についての記述がもっとあれば嬉しかったのですが、残念ながら詳述はされていません(マグリブにおけるフランス語との関係についてはある程度紙数が割かれている)。ただ、日本語や欧州諸語に比べると複雑な状況にあるアラブ諸国とはいっても、ブラックアフリカ諸国やインドの複雑怪奇な言語状況に比べれば、まだまだ可愛い方だ、というのが、本書を通読しての感想です。少なくとも書記言語の正書法は定まっていますし、国内の言語はほぼ統一されていて、さらに複数「国家」をまたがって共用されていますし、しかもアラビア語は伝統的にアラブ圏以外でも尊重されている言語です。その半端なプライドがかえって足を引っ張っている、というのもありますが、それでもまだまだマシな方でしょう。
日本語話者としては、最初に書いた通り、言語が「自然」であるかのようなファンタジーを相対化する上で、こうした諸言語状況を通観するのは益のあることです。日本ではしばしば、「正しい日本語」のような「正しい英語」が英語教育において過剰に求められているきらいが見られますが、こうした傾向も「正しい日本語」概念が普及しきっている特異な状況に由来するのではないでしょうか。そうした「正しさ」に効能はありますが、その「正しさ」とは政治的な「正しさ」でしかありませんし、特に諸外国語を訓練し話す過程においては、邪魔になることの方が多いでしょう(論文を読み書きする上では役に立つことの方が多いかもしれない)。政治的「正しさ」は、そう自覚した上で政治的に用いるべきです。
ちなみに、アラビア語について言えば、「正しいアラビア語」の政治性があまりにあからさまなので、この点を誤解しにくいところが、一周回ってメリットとも言えます(それでも誤解している人は沢山いますが)。
些事ですが、上で引用したインドネシア語における外来語導入についての下りなどを読むと、日本語書記は非常に便利にできています。これが外国人に厳しく、また「日本人英語」などを助長しているのは間違いありませんが、日本語の外来語吸収力を非常に高めています。ただ、自覚的でないと、諸外国語を訓練する際には実に足を引っ張ります。
外来語と言えば、アラビア語における外来語表記は非常に厄介です。外国人にとって難しいだけでなく、しばしばアラブ人も正しく読めません。これは、原則として短母音表記がない、という、アラビア語書記の特徴によるものですが、「頼むから英語でそのまま書いてくれ!ラテン文字表記してくれ!」と思うことがとても多いです。一度、黒澤明の名前が小説の中で突然に登場したことがあったのですが、それがあの黒澤だと気付くのにしばらくかかりました。
アラビア語の書記法は独自の仕方で洗練されており、アラビア語を読み書きしている分にはとても便利で美しいものなのですが、外来語表記には不便が多いです。stopがsutoppuになるような言語独自の音韻変化があるのは寧ろ肯定評価すべきだと思いますが(例えば、アラビア語では冒頭音節に必ず母音がつくので、子音の連続から始まる語ではしばしば冒頭にiなどの母音が挿入される)、ちょっと開き直って外来語用の記法を確立した方がアラビア語の発展性が開ける気もします。