宗教の誕生。
そう言うと、祭祀遺跡の考古学的研究とか、埋葬の始まりといったことを連想するでしょう。それはそれで興味深いのですが、ここで言う宗教の誕生は別の話です。
では、宗教的であることの反対とは何でしょうか。今日的には多分、「世俗的(secular、علماني)」という言葉が来るでしょう。しかしこの世俗概念は近代の発明であり、実際、19世紀に「無神論」とか「宗教的ではない」というネガティヴな言葉の代理として登場してきたことに始まるようです1。
わたしたちを取り巻く環境においては、宗教はしばしば「基本の生活」にプラスアルファで付け加えられる思想信条のように捉えられています。これがそもそもの誤りの始まりだということを、何度も指摘してきました2。つまり、「世俗」がデフォルトで、お望みならオプションでシューキョーもどうぞ、という具合です。
しかし、こうした形で捉えられたシューキョーは、特殊近代的で骨抜きにされた、「原住民」が観光客相手に演じて見せる「伝統芸能」のようなもので、本来の宗教とは根本的に異なるものです。そして、結論を先取りしてしまいますが、宗教の側に立っている(と思っている)人々自身が、この宗教観、オリエンタリズム的逆投射を引き受けてしまっているところに、今日的な宗教問題の多くが根を持っています。
「宗教」が誕生したのは、世俗が誕生した時です。つまりおおよそ近代以降、とりわけ18世紀から19世紀頃です。もちろん、それ以前にも今日で言うところの宗教現象にあたるものは存在したでしょうが、「宗教」が析出されたのは世俗概念の成立をもってです。それ以前にも宗教概念はありましたが、今日的な「オプションとしての宗教」という概念とは全く異なるものだったでしょう。
宗教は世俗に先立ち、発生論的に先行しますが、世俗概念はその成立において遡及的に基体の位置をかすめ取り、論理的に後行するものとして「宗教」を生み出しました。そしてこの「宗教」概念によって、それ以前にあった宗教が隠蔽されることになりました。
本質的に「無意味」であるところの世界に、宗教や何らかの価値体系が意味を「付与」するのではありません。世界は基本的に有意味で、特権的な実験室的環境において初めて「無意味」が成立するのです。丁度統合失調症患者の関係妄想のように、世界はデフォルトで意味を持ったものとしてわたしたちに迫ってきます。もちろん、その「意味」の多くは、今日的に言えば「根拠がない」ものでしょう。しかし、意味の追跡を逃れてこれを「根拠がない」と言うのは、相当な力技をもって初めて可能になることです。
ここから始めなければ、宗教についての何も内側から理解することはできないでしょう。いや、ここで「宗教」という、一つのまとまりあるものとして語ること自体、既に世俗概念のトラップに嵌っています。そこには一つのまとまりすらないかもしれない。
厄介なのは、「宗教者」たち自身が、この逆投射的な見方に捉えられてしまっていることです。ある種の宗教的テロリズムについて、むしろこれを近代の所産と論じるものがありますが、これも並行的です。「宗教があることによって『心の平安』が得られる」などと言う時、既にトラップに嵌っています。心の平安はあるかもしれませんが、宗教はヘーアンを得るためのオプションではない。
個人的にここで連想するのは、ラカンの四つのディスクールです。この文脈における世俗は、大学人の語らい、つまりS2「知」が対象aに語りかけ、命令者としての第一のシニフィアンS1が抑圧される、という構造です。ここから逆投射的に想定されるのは、主人の語らい、つまりS1がS1に語りかける、あるいは命ずるという構図です。これは全く、遡及的にイメージされたパターナルな「宗教」概念にぴったりです。
もう一つ厄介なのは、宗教自身も、こうした語らいのトラップにすぐにはまり込む、ということです。預言者は分析家のように語り、つまり対象aが無意識の主体へと語りかけ、結果として命令者S1がproductされた筈です。しかし人々はしばしば、これを端的に命令者が命令する語らいへとすり替えてしまう。こうしたことは近代以前にもあったでしょうし、あるいは「必然的な錯誤」なのかもしれません。
しかしこれが必然なのだとしても、それに抗う要素がなければ、観光客相手の伝統芸能のような死に体に他なりません。そうでないものを発見するには、まず「宗教」というカテゴリを外して見る、という難行を試みるより他にないように考えられます。あるいは、実のところこれは難行でも何でもなく、ふと気の抜けた時に誰もがやっていることなのかもしれませんが。
- ちなみに、エジプトでは「世俗的」ばネガティヴな言葉なため、代わりに「リベラル」とか「進歩的」のような言葉がよく使われます。つまりエジプトにおける「リベラル」は、必ずしも「リベラル」ではないということです [↩]
- イスラームの内側から外に突き抜けるということ、選ばないことでは無宗教にはなれない、人々の目線と神様の目線等参照 [↩]