迷い

 ジャーヒーン1の四行詩に、こういうものがある。

人に強制することも、選ばせることもならない
迷う知性のある限り
今日求め望んだことを
明日には変えることを望む

 迷いはこのように、外面的には、醜いものだ。これは良いか否か? これは役に立つか否か? こうするかああするか? そもそもやらないか? 毎日、わたしたち皆の頭に、何十も何十も問いが湧く。奇妙なことに、知ればしるほど、迷いも多くなる。この関係は、外見的には不自然だが、意味としては自然だ。もし人間が、知る度に問うことをやめていたら、前へ進むことがないからだ。常に迷い続け、分からないままでいる運命なのだ。迷いはわたしたちの運命だ。なぜなら、人間は、地上で唯一選ぶ存在だからだ。唯一選ぶ存在であるから、善悪の勘定を受ける2唯一の存在なのだ。
 重荷と懲罰ゆえに、素晴らしい恩恵を忘れてしまう。誰が人間である代わりに、木やキリンや馬であることを選ぶというのか。「もし自分が・・であれたら」と言う人が大勢いることは知っている。しかしもし本当に、選択できる能力を与えられたとしたら、どんな状況であれ、どんな迷いがあるのであれ、それを選ぶという者はいないだろう。
 このことにより、自由というものが、存在のうちで最も美しい考えとなるのだろう。迷いなくして自由はない。歴史の始まりより、そのために犠牲となる者が最も多かったのが、自由だ。人間はそもそも自由により出来ているからかもしれない。人間の歴史における、最初の自由の物語は、アーダムだ。主は彼を自由にお創りになり、こう仰った。{われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから」2:35}。この通り、アーダムは自由だった。自由が彼自身を虐げたのだ。主は木の周りに囲いを創られなかったし、木をアーダムより高いところに置かれもしなかった。主は彼に選択を預けられたのだ。主はわたしたちに選択を預けられたのだ。選択とはつまり、自由だ。
 天使すらも、道を定められており、{かれらはアッラーの命じられたことに違犯せず、言い付けられたことを実行する 66:6}。太陽すらも道を定められている。海すらも道を定められている。星すらも道を定められている。すべてが未知を定められている。わたしたちを除いて。
 歴史が教えることは、いかなる地上の文明も、長い間安定し、学問や芸術が反映し、様々な富が増すと、下り坂になり、凋落する。金銭が増えることで腐敗が増したからかもしれないし、また人間は必要なものすべてを手に入れると、貪欲となるからかもしれない。しかしわたしが考えるのは、迷いの反対の道と関係しているのでは、ということだ。というのも、上のようなことはすべて、人に疑うことをやめさせ、悩むことをやめさせ、その結果、人は自分が決定の主人であり、その運命を支配できると考えるようになるからだ。それから突然、まさにこの瞬間に、崩壊が始まる。というのも、その存在と進歩と成功の秘密の鍵、つまり迷いを失うからだ。
 主が、非常に多くの事柄について、わたしたちを迷い続ける者たらしめんとしているかを語らず、迷いについて語ることはできない。主はわたしたちに、死や、魂や、わたしたち自身や、讃えあるいと高きご自身について、多くを語られているかもしれないが、次のことについては語られず、ただ示されたのみであった。すなわち、わたしたちすべてとその知性が、問いを増やすのか減らすのか、確信を得るのか得ないのか、ということについては。依然迷い続けている。なぜなら、依然人間だからだ。

  1. リオル・ァリュ リャリァル・館陂€ サラーフ・ジャーヒンは、二十世紀のエジプトの詩人、風刺画家。アーミーヤによる四行詩で知られる。尚、彼は生粋のエジプト人だが、その名前は部族名リャル・館・ゥに由来するらしく、リャはj音で読まれる []
  2. リァリェリュリァリウリィ 善行と悪行をカウントされ、その評価を受けることだが、語義的には「数える」「勘定する」という商業的なイメージがある []
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