古き良き芸能の時代とその他の事々

シェアする

 ほとんど毎日のように、この国の芸術家や芸術家でない人、あるいはテレビタレントなどが、テレビに出てきて語ったり、あるいは少なくとも触れたりしている。古き良き芸能というものに。
 古き良き芸能とは何だろう。決めつけてはいけない。今の芸能が酷いというのか? 酷いとはどういうことだろう? お気に召さないということか? 確かに音楽市場はゴミで一杯だが、だがそれは筋の通ったことだ。古き良き芸能の時代には、十人ほどの歌手しかいなかったのだから、歌えないとか歌が酷いとかいうのはいなかった。方や現代は何千だ。世界のどんな国にも、間違いなく今一つな歌というのはある。しかしこれは、昔が良くて、今は悪くなった、ということではない。歌の状況が違う、変わったということだ。歌のラジオ局を埋めてパーティーやら何やらで歌うのに、世の中が何百もの歌を受け入れる、というより必要とするようになったのだ。古き良き芸能の時代が終わったということは否定できない。かつては尊敬できる歌手がいて、優れた作曲家がいて、素晴らしい配給者がいた。そして素敵な歌詞と音楽の立派な何十もの歌が、かつても、また依然として今も、作られている。昔の歌とはすべてが違う。ああ、確かに。しかしまた素敵でよくできている。ただ違うというだけだ。
 もし歌手が古き良き時代を懐かしむというなら、美しき芸能をやったら良いではないか。誰かが邪魔するとでも言うのか。もし普通の人が、古き良き時代の歌が懐かしいというなら、聞けばいい。今でもあるのだから。誰かが昔の歌を隠しでもしたのか。
 もし望むなら、わたしたちの歌謡の遺産を尊び神聖化するというのは、悪いことではない。しかしそれは、わたしたちの現在を否定するということではない。何が言いたいのかよく分かりもしないままに、同じ台詞をオウムのように繰り返すことでもない。
 こぼしてしまったミルクに泣くのは沢山だ。「古き良き芸能の時代」だけではない。映画も演劇もテレビも、この世のすべてのものについてだ。すべて過ぎ去り、別のものがやって来るのだ。それを好むか、あるいは変えたいなら変える。わたしたちが改革するのだ。しかしそれは、わたしたちがよく学び、何が問題なのか理解し、そうやって良くするのか学んでからの話だ。ただ嘆いて騒ぐだけのことでは決してない。
 このテーマには、別のある事柄について考えさせられる。
 昔のエジプト人は決してだらしないことをせず、よく学び、倫理性も素晴らしかった。それが今と来たら、倫理なんてありはしない。誰がこんなことをしたのか? 誰に責任があるのか? 若者が倫理性に欠けるというなら、その家族が間違ったやり方で育てたということではないのか? ある者たちはこう言う。「家族だけがそうしたわけじゃない、学校や大学が影響しているんだ」。するとその学校とやらには、宇宙人でもいるのか。学校には二種類の人間がいる。生徒と先生だ。先生たちは、常に生徒の前の世代に属している。そうだろう? もし生徒が先生のお陰でダメになるというなら、これもまたやはり、前の世代がそのダメさの責任を負っている、ということではないか。学校にいる残りの人間は、全部生徒だ。悪魔の仕業で出てきたわけではない。そうだろう? みんな家からやって来た。この家には誰がいる? 家族だ。家族というのはどこの者だ? これまた前の世代だ。それなら、もしこの子供たちがダメだというなら、ダメにしたのは誰なのか? 前の世代がダメにしたのだ。少なくとも、ダメになるのを看過していた。なぜなら、育つ環境を作ったのは彼らなのだから。
 「テレビがどうしようもないもので一杯だから」。なるほど。そのテレビには誰がいる? シオニスト! 前の世代が、今の世代を育てている。学校や大学のように。
 「衛星放送をやインターネットを見ているから」。なるほど。その衛星放送やインターネットには、学問や芸術や知識はないというのか。あるだろう。今の世代に、知り学び啓蒙されることを教えなかったは誰なのか? 彼らのほとんどが、無意味なことを好むようにしたのは誰なのか? 彼らの頭を塞ぎ、自分一人では何も考えられず、知らないことを何でも恐れるようにさせたのは誰なのか? やはり前の世代だ。
 それでも「子供たちの教育の責任」とは何か、と言うかもしれない。それはこういうことだ。すべての世代は、その後に続く世代に対して責任を負っている。これは、子供たちは過ちを犯しても責められることはない、という意味ではない。とんでもない。もちろん責められる。それも、自分のしたことでだけ責められるのではない。いずれにせよ彼らは、それ以前に起こった問題、その後の未来に影響するであろうことを、何とかしなければならないのだ。しかし彼が責められる前に、そういう結果を招いた責任者が責められる。彼らが責任を負い、面目を保つべくことをなしてくれると良いのだが。
 最後に言えば、何事もひとりでに起こったりはしない。常に誰か責任者がいる。責任を負うということは、ちょうど過ちを認めるのと同様の美徳だ。
 大人たち殿にはお願いしたい。犠牲者たちに容疑を投げるのをやめ、何を為すのか考えて欲しい。時がダメにしたのでも、勝手にダメになったのでもなく、あなた方がダメにしたものを、修復する手助けをするのに。子供や若者は、農作物のようなものだ。耕し、育て、心を砕く。収穫物の出来に対する責任がある。良くやれば、良くなる。悪くやれば、悪くなる。自分の育てた綿花に対して、お前は出来が悪くてどうしようもない、昔の綿花とはえらい違いだ、などと言う者はいない。