一人で考えるものじゃない

 わたしたちの理解の前に立ちはだかる最大の難問は、とても複雑で広大で包括的で、その理解がわたしたちの限られた能力を超える概念、例えばアッラーの概念を理解することだ。わたしたちの社会には、自分でそれを発見する機会がない。わたしたちは誰でも、子供の時から、主のイメージを押し付けられているが、これが大抵の場合、事実からはかけ離れている。端的に、わたしたちは事実を知らないのだから。確かに主は、偉大にして崇高なるご自身を、その宗教と使徒たちを通じて証されているが、これらの証拠は学問の類で、すべて先人を通して、彼らの理解の仕方でもって伝わってきたものだ。彼らの聡明さと意識、叡智の程度は、もちろんのこととしても。
 父親や母親が子供に、嘘をつくと地獄に行くとか、盗むと地獄に行くとか、近所の女性にキスすると地獄に行くとか言うと、この子供は大きくなって、主はわたしたちを苦しめたいのだと考えるようになるかもしれない。地獄に行かせるために、わたしたちが間違えるのを待っていると。もし、例えば、主わたしたちを愛していらっしゃる、というのも彼はわたしたちの創造主で、わたしたちの魂は彼の元から来たのであって、わたしたちは地上におけるその代理人なのだ、と言ったとしたら、常に善き人間たろうとし、主の言葉を聞くに違いない。その場に相応しい者たるために。間違いなく異なる影響がある。仮に行いが一つだとしても、その背後にある哲学は異なるものとなるだろう。
 人々は、子供たちが麻薬や酒や女や男へと道を踏み外すのを恐れ、主の言葉を、間違ったことをさせないために使おうとする。主への恐れという概念を、丁度警察や法律や政府への恐れと同じように使う。一方で非常に多くの場面で、主を全く恐れる様子がない一方、例えば牢獄を遥かに恐れている、というのを目にする。間違いなく皆さんも目にしているだろう。これらの人々は、同じ方法で教育する、同じ社会の結果なのだ。
 子供に地獄を怖がらせるというこの件とまったく同様のものを、落第しないために勉強する、という場に見出すことができる。間違いではないかもしれないが、わたしから見てより良いのは、何より学ぶために勉強することだ。そうすれば知性はより高きものとなり、理解は増す。次が成功のためだ。そうすれば成功の味を味わい、それを好み、追求し続ける。最後に、これらすべてを役立て、周りの人に貢献するためだ。遠い人のためなら尚素晴らしい。間違った脅しの目的は(この名づけは気に入ったが)、子供が大きくなってから、主を求め理解しようとする機会、あるいはそのようにしなければならない理由を知る機会を損なってしまう。というのも、彼の主との関係は、間違ったことをせず信仰行為を行うということに限られ、それが終わればこの件はお終いとなってしまうからだ。ことは終わりにはならず、始まっただけで、始まってすらいないかもしれないのに。
 主はクルアーンで{ジンと人間を創ったのはただわれに仕えさせるため 51:56} と仰っている。このアーヤについての、今までの人生で出会った最良のタフスィールは、ムスタファー・マフムード師がその著書「クルアーン 現代的理解の試み」で述べているもので、ここでの「仕える」の意味は「知る」ということだ、というものだ。主はすべての人間をお創りになり、偉大にして崇高なるご自身は決して現されない。ただ自身を証し立てるだけだ。そのすべての創造を通じて。
 地と天と存在の秩序、生と死、そしてすべてのものが、その創意をもって創造され、その巧みをもって秩序立てられた。人間が主を、目にすることなく理解するために。心と知性をもって知るために。「アッラー以外に神なし」と言えばそれを意図し、「ことはすべて彼に帰す1」と言えばそれを理解するように。
 一人一人が主の創造と叡智、無限の能力の中に主を発見する長い旅は、浅薄なわたしたちの文化現象を目的とするものではない。文化現象とは、礼拝し斎戒する者は天国に入ると考えることだ。そして人生の背後にある基本的な目的を忘れてしまう。人間がそもそも「仕えるために」ある、ということを。もし主を信じ、信頼し、一人の僕たろうとするなら。僕たることは、儀式や信仰行為をすることではなく、一番大切なのは、誰が主人であるのか、誰が主であるの、誰が恵みを下さるのか、誰が創造されるのか、誰の元に死後帰るのかを、知ることである。わたしの考えでは、これらすべての知識が、正しい知識であると知る方法はない。現世と人々と歴史と世界と諸存在の下に、心と頭と魂を開いて、これについて考え、それらの事柄を思索するより他に。おそらくは主を見出すだろう。視力の眼によってではなく、洞察の眼によって。

  1. 11:123 []
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