才能

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 もちろん、アッラーからの賜物だ、間違いなく。また、人と人を分かつ方法であり、人々が互いに異なるまた一つの証左でもある。
 どんな才能でも、すべての才能は驚くべきものだ。詐欺の才能だって凄いものだ。本当のところ、これは確信がないのだが、この世のすべての人間には才能があると思っている。もちろん、等しい量の、ではない。ある人は鼻歌が上手で、ある人はバリーグ・ハムディー1で、ある人はモーツァルトだ。ある人は読み書きを知っているだけで、一方ユースフ・イドリース、ナギーブ・マフフーズ2、シェイクスピアがいる。この世の誰もが、抜きん出ることのできる才能を持っているという考えだが、まず、それが何なのか知らないとならない。まず状況が許して、それから才能が開花するのだ。わたしに物書きの才能があったとしても、読み書きを知らなければ、そもそも物書きの才能があることが分からないだろう。
 では、才能は探し出さなければならないのか、それとも勝手に現れるのか? 道筋をつけてやらないといけないのか、それとも何とかなってしまうものなのか? 率直に本当のことを言えば、分からない。その才能が運命となる人々がいる。偉人たちは大抵そうだ。間違いなくシェイクスピアは、その価値を持ち地位につくべく創造された。この人物は1616年に亡くなったが、現在に至るまでこの世のあらゆる場所でその作品は研究され、やむことがない。モーツァルトが、音楽において何をなしたか見てみれば良い。サイード・ダルウィーシュやバリーグ・ハムディーが音楽において何をしたか、見てみて欲しい。ただ才能があるだけでなく、天才だった。これらの天才は、わたしの感覚では、運命づけられた人々だ。これらが全部偶然で起こるというのは難しい。激烈な才能がぴったりの時に丁度の場所にあるのが、偶然などというのは、筋が通らない。もちろん不可能ではないが、少しばかり難しい。
 しかし一方で、この世には、モーツァルトやシェイクスピアと同じ才能を持ちながら、状況が相応しくなかった、という人々がいる、というのも勿論あり得る。
 また、これが実現されるというのは運命的ではなく、ある才能は多くの人々に与えられていて、その才能を表すことが出来、それでもって何か天才的なことを成し遂げるのは、それを最も感じ取り理解し実現し、最もそれを望み、それによって最もことを為す人だ、ということもあり得る。正直、分からない。
 しかし、確信をもって言えるのは、この世で最大の、最も偉大な才能は、生という才能そのものだということだ。また、この才能は、すべての人間が限定的に与えられているものだと思う。この才能は、この世でバランスをもって生きられるようにしてくれるものだ。生を愛しても拘泥せず、他の人と異なれど憎むことなく、何にでも参加するが盲信的になることなく、許すが忘れることなく、熟慮の上で拒み、バランスをもって楽しみ、野心を持てど強欲とならず、問うても不信仰たることなく、バランスよく生きられるように。
 わたしたちが自然から学ぶ第一の教えは、バランスだ。人間はこのバランスを崩し続けて何十年にもなる。しかしそもそもの自然は、とてもバランスが取れている。水が海から空へ、雲へ、大地へ、別の海へ動く仕方、バランスだ。これがあれを食べ、あれがそれを食べ、それがこれを食べる、バランスだ。すべては地から来て地に帰る、バランスだ。生き物と星々と惑星の動き、これらすべて、バランスだ。
 片や、この世のすべての悪の源泉を見てみれば、そこにバランスの欠如があるのが分かる。野心が過ぎて強欲となる。強欲が過ぎて盲目となる。使うことが過ぎて搾取となる。嫉妬が過ぎて悪となる。愛が過ぎて盲信となる。バランスを欠けば、必ず地の底に落ちていく。
 すぐにお分かり頂けることだが、音楽の才能のない者が眩いばかりの演奏をするなどということは、不可能だ。彫刻の才能がなければ、偉大な彫刻家などにはなれない。演技の才能がなければ、百八十の映画に出演しても下手くそなままだろう。
 しかし、他のすべての才能とは逆に、バランスの才能、生の才能は、誰かにとっては不可能という才能ではない。もちろん難しい、この世のすべての事柄と同様に。しかし不可能ではない。

  1. エジプト人作曲家 []
  2. ユースフ・イドリース、ナギーブ・マフフーズはエジプト人作家 []