恋愛

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 男女の愛のことだ1。胸を痛ませ、眠れなくさせ、人々をなりふり構わなくさせる愛。ため息の愛、アブドゥルハリームとウンム=クルスームの愛。最初に愛する人を見て、魂の中に何かが起こり、それをなんと表して良いものやら分からない。愛は心に噛み付き、その欠片をかじりとり、二度と取り戻すことができない。
 素晴らしきかな愛。愛の痛みすら美しい。愛する故に瞳を閉じることもできず、嘆きと恋しさと求める痛み。この痛みを人間は探し求め、その後を走っているのだが。人間が愚かで、痛みを求めているからではない。人間本性が聡明で、愛ほど幸せになれるものはない、と分かっているからだ。
 この世の苦悩のすべてを背負い、語りかけたいならこの世のすべてが耳を傾けるのでも、愛する人が聞いてくれるなら、世界は死に、自分の恋人になる。胸が引き裂かれるほど喜んでも、もし愛する人と共に喜ぶのでなければ、喜びは決して続かない。
 それは、主が人間に与えられた最大の恵みは、この愛の能力かもしれない。真面目な話をしよう。愛は、これもまた真面目なテーマなのだ。男女の愛で一番ややこしいのは、わたしの考えでは、欲求との結びつきだ。誰もこの二つの間に分割線を引けない。おそらくは、主がこのように結びついたものとして創造されたので。愛と欲求の結びつきが、例えば、美しい感情が、我が美しき東洋において、恐ろしい怪物ブアブア2に変わる原因だ。これもまた悩ましい問題だ。つまり、愛は美しく、人々が好きなように愛し、愛は述べたように欲求と結びついているので、ことはどうしようもない失敗に陥るのか。あるいは、わたしたちが長いことそうしているように、愛を嫌って切り刻むのか3。わたしの考えでは、どちらでもない。真ん中を採るのが、常に一番好ましい。失敗でもなく、愛はハラーム、でもなく。男の子の手を握ったら地獄に堕ちるとか、そういった怪物「我らが母グーラ」の雰囲気でもなく4。わたしは、この問題に、明瞭で正しい中庸があるとは思っていない。なぜなら、これは、社会環境や養育方針、様々な習慣に結びついているから。しかし一般的に、公正と、ことに対する客観的な見方を呼びかけるものだ。考えなしに、繰り返し続けてきた詩や言葉を離れて。
 愛はブアブアか? いや、ブアブアではない。
 結婚以外の愛は、この文章を読んでいる多くの人々の心にとって、危険な地雷だ。だから、シャリーアに沿った愛について続けることにしよう。シャリーアに沿わない愛にも同じ法則が適用されるのだが、まあ良しとしよう。
 エジプトの大衆文化では、これが大変賢いものなので、女性が夫を「わたしの男」と言い、女性は「俺の女」という名だ。この二つの言葉が、どのようにはたらいているか、見てみよう。まったく、素晴らしいものだ。しかし問題は、この言葉の理解と、その意味の了解の仕方にある。思うに、ほとんどの女性は、この「わたしの男」とは、彼を監視し、財布を調べ、電話を見て、友達と出かけた時には虐める、等々ということだと思っている。ほとんどの男性は、この「俺の女」とは、大人しい動物のように扱い、一人で出かけさせず、自分以外とはどこにも行き来させず、誰も彼女を見ず、誰々さんとかこれこれさんとかと選ばせず、喚くことができるのだということを忘れさせないために、ちょっと経つごとに喚く、等々ということだと思っている。これらは全部、男らしさも女らしさも愛も示していない、ということはお分かりだろう。それが示すのは、支配と所有の愛、自信のなさ、安心の欠如、それから同じくらいダメな他の事柄、あるいはもっとダメな他の事柄だ。
 女性は誰かの女性になるかもしれないが、それは彼女が彼のものになりたいからで、それは彼女が、彼が自分の男だと感じるからだ。当然、逆もまた然り。ことは、彼女が買えるようなモノだということではなく、称号のようなものだ。彼らのどちらもが、互いに値する時に、これを得るのだ。
 わたしは、どのような愛の関係も、貯金箱のようなものだと考えている。関係の双方が、そこに貯金して、愛や純真や相互理解や許しあうことや優しさなど、出来ることを何でも入れていく。貯金箱が一杯になっていくなら、愛は良い愛になる。足りなくなる度に、それぞれのやり方で続けていく。どちらも、一人で一杯にしたり、使ってしまったりすることはできない。両方が損するか、両方が得するかだ。
 誰が何を貯金箱に入れるのか、ということを考えよう。思うに、ほとんどの人は、愛の関係において、(これこそが大抵の関係を壊すものだと思うが)お互いが相手を監視して、貯金箱に何を入れたか見ている。あるいは、本当のところ、何を入れていないかを監視している。「しなかった」「言わなかった」「くれなかった」「行かなかった」、これらはすべて、否定詞のある観察だ。少数の者だけが、自分自身を監視し、自分が貯金箱に入れるのをケチっている、と考える。「これこれすべきだった」「こう言った方が良かった」「行くべきではなかった」「すべきではなかった」。二人ともが自分自身に気をつけるなら、間違いなく関係はうまくいくだろう。
 非常に多くの関係で、片方がもう片方よりずっと多く貯金箱に入れている。もし、沢山入れている方が、沢山入れることが嫌ではなく、少ししか入れていない方が、慈しみがありやりすぎないなら、この関係もまた、成功した関係となるかもしれない。片方が入れているのを放っておきとぼけるなら、あるいはまた、当然ながら、両方が何も入れないなら、もうおしまいで来年会いましょう、という次第だ5
 この件に関する理想的なシナリオは、それぞれが自分のことだけ見ることだ、と感じている。自分にできる限りのものを貯金箱に入れ、見返りを期待しないことだ。この場合は、誰が誰より多く入れている、ということは大事ではなくなる。二人のそれぞれが、ベストを尽くしている限り。人々は同じではないのだから。妻は、あることについて、わたしが彼女のためにやるより、上手にわたしのためにやってくれるかもしれないし、逆もある。問題は勘定ではなく、それぞれがベストを尽くしているか、だ。
 結婚から数年が経つと、人々はいつも愛の倦怠を嘆く。誰もが同意するように、しばらく時が経つと、愛の炎は収まり、別の種類の愛で置き換わる。これは、手を握ってため息をついて胸をときめかせるものではない。より多くの慣れ、より多くの所有欲、また時に飽きがある。本当の話、こうなった時にわたしたちは損をしているのだ。丁度、沢山お金を持っていた人が、それをすべて失った時の光景のようなものだ。皆が彼を馬鹿だと言うが、彼らのほとんどの方がもっと馬鹿なのだ。なぜなら、お金より遥かに高価な恵みを失っているのだから。そして、自分から進んでか、あるいは愚かさ故にか、一番近道で簡単な幸せへの道を、自らに禁じているのだ。

愛、それは逃れの場、投錨地、救命筏
愛、それは水、日陰、生の欠片

  1. この章のタイトルはリ・ル・・言 ル・陟€ ル・・ナ、リァル・ュリィ リ・ル・・言 ル・陟€ ル・・wしている。これは、愛一般ではなく、「あの例の、いわゆるところの愛」といったニュアンスの言い方で、要するに男女の愛のことを指す []
  2. リィリケリィリケ 怪物の名だが、特定の形があるわけではなく、子供を脅かす時などに使われる []
  3. エジプトでは、映画や歌の世界からイメージされるのと異なり、一般社会では恋愛という存在そのものが禁忌とされ蔑まれる傾向が強い []
  4. リ」ル・・ァ リァル・コル異・ゥ 怪物の名前だが、ここでは親が娘に対して「色恋なんかしているとグーラが来るよ!」と脅すことを指している []
  5. ル・關€ リウル・ゥ ル・蔀 リキル韓ィル館陂€ イードなどの年次行事の際に使われる表現だが、ここでは「もうおしまい」「ハイさようなら」のようなニュアンスがある []