皆がわたしに何と言うか?

 もし道で運転していて、横の車にぶつかったとしたら、運転している男が来て「このクソヤロウ」と言うだろうし、わたしも罵り返すだろう。もし降りて殴れるなら、降りて殴る。何をわめいてやがるんだ、と。何千、何百万もの喧嘩が、毎日、この世のあらゆる場所で、些細な理由から、あるいはこれ以上ないほどつまらない理由で、起こっている。わたし自身も、もし正にこの道で誰かが罵ってきたら、喧嘩するだろう。しかし最近、やり返すことのつまらなさを感じ始めた。
 やり返すことは何故つまらないのか? なぜなら、その男は、そもそもわたしのことを何も知らず、問題はまったく個人にまつわることではない、ということを、よく分かっているからだ。その男は、車で割り込んできたヤツを罵ったのであり、そもそも本当のところ、行為を罵ったのであって人物ではない。誰なのか知りもしないのだから。しかし、心が入り込んできてこう言う。「どうして罵るままにさせておくんだ? 誇りはどうした。それじゃ負け犬だ。男じゃないぜ」。自分自身の声を聞き、行ってやり合うことになる。喧嘩に至らないにしても、苛々したままで、運転しながら腸煮えくり返っているのだ。頭で考えれば、あなたを誰とも知らない者に、生涯二度と会わない者に、通りですれ違っただけの者に罵られたからといって、何一つ失うものなどない、と分かっているのに。
 どうしてわたしは、例えば、お金とか家とか車とかを盗まれるのを許せないのだろう? この場合は、自分の所有物を守っているのだ。誰かが殴りかかってきたら、自分を守る。もし誰かがわたしの事務所に押し入ってきて罵ったら、この場合は、わたしに対して向けられた意図的で計画的な敵意に対し自衛しているのだ。これは全部お分かり頂けるでしょう? 話を戻すと、わたしのことを知らない男が道でわたしを罵ってきて、彼とやりあったら、わたしは何を守っているのだろう?
 わたしが今考えているのは、この場合守れるものは何もない、ということだ。ただ、わたしのことを知りもしない男の心の中にあるわたしの像を除いて。それでどうなるのか。わたしがやり返さないことで、彼はわたしに負け犬と言うかもしれない。よろしい、おかしなことじゃない。そいつが言いたいことを言ったからといって、わたしにとって何の違いがある? わたしの心は、尊厳が傷めつけられているとか囁くが、それはどこから来ているのか? この愚かさは何だろう、わたしたち皆が、どうしてこれほど愚かになろうか。
 通りですれ違った男が罵ったりしてきた時に、実際に蒙る損失について考えて欲しい。何も起こらない。尊厳が痛むかもしれないが、そんなつまらないことで痛むように教え込んだのはあなただ。この痛みはまったく本当のものではないし、そもそも痛みなんてない。
 もちろん、この問題を刺激するのは罵りだけではない。すべての人間の人生、とりわけ、この惑星のこの地域のものは、なすべきかなさざるべきか、というあれこれに満ち溢れている。人々にどう映るかを気にするが故に(尊厳、見た目、プレステージ、等々)。
 どれだけの人が、実際より多く金を持っているように振舞っているだろう? どれだけの人が、トビネズミみたいにつまらないのに、貴族風でシックに振舞っているだろう? どれだけの人が、臆病なのに勇敢そうにふるまっているだろう? どれだけの人が、この世のことを分かっていないのに、知恵と知識があるように主張しているだろう? その他諸々だ。益といえば常に一つだけ、人々が、わたしが何を知らないと考えるのか、ということだ。よろしい、あなたのことはあなた自身が知っているではないか。人々のあなたに対する視線が、鏡の中のあなたの像をどう直すというのか。誰を笑っているのか。
 もし、鏡の前で、わたしが何らかの意味で良くない人間なのなら、世界中が耳心地の良いことを言ったとしても、わたしにとって何の重要性がある? 何もない。それならあるがままであればいい。そうすればリラックスするだろう。自分が隠れているように感じることはなくなるから。周りの人間もリラックスするだろう、あなたが理解できると感じて。一番大事なのは、あなたの欠点がはっきり明らかになれば、そこで直す必要があるかもしれないということだ。
 欠点を隠そうとしたり、自分を偽ったり、嘘を言い張ったりする努力は、大抵は、隠すような事柄を抱えていない本当により良い人間になる努力よりは、少ないものだ。
 それだけだ。

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